皇太子の座は誰に?
ドラマと同じように、敦康親王は彰子に我が子のように慈しまれ、大切に育てられた。
幼すぎて、なかなか子を授からなかった彰子であるが、ついに懐妊し、寛弘5年(1008)9月11日、一条天皇の第二皇子となる敦成親王(後の後一条天皇)を出産する。
さらに、翌寛弘6年(1009)11月25日には、第三皇子となる敦良親王(後の後朱雀天皇)も誕生した。
二年続いての皇子誕生に道長は歓喜したが、敦康親王は微妙な立場に置かれることとなる。
当時は、中宮が産んだ第一皇子が立太子し、やがて天皇に即位するのが通例であり、皇后、または、中宮が産んだ第一皇子が、皇太子となれなかった例は、一つも存在しなかった(倉本一宏『平安貴族とは何か 三つの日記で読む実像』)。
一条天皇は愛する定子の子である敦康親王を皇太子に望んでおり、彰子もまた、我が子のように慈しんだ敦康親王の立太子を願っていたという。
だが、道長は敦康親王を見捨て、自分の外孫である敦成親王を立太子させたいと、強く願った。
そして、おそらく、敦成親王が天皇となった後には、敦成の弟・敦良親王を皇太子の座につけたいと考えたと思われる。
翌寛弘7年(1010)正月28日には、伯父の伊周も37歳で没してしまい、敦康親王の後見はますます弱くなった。
そんな状況のなか、寛弘8年(1011)5月22日、一条天皇は病に倒れた(『権記』寛弘8年5月25日条)。