こんなに読みやすい芥川賞作は前代未聞。サラリーマン小説と登山小説の融合

『バリ山行』
著者:松永K三蔵
出版社:講談社
発売日:2024年7月29日
価格:1,760円(税込)

【概要】

第171回芥川賞受賞作。古くなった建外装修繕を専門とする新田テック建装に、内装リフォーム会社から転職して2年。会社の付き合いを極力避けてきた波多は同僚に誘われるまま六甲山登山に参加する。その後、社内登山グループは正式な登山部となり、波多も親睦を図る目的の気楽な活動をするようになっていたが、職人気質で職場で変人扱いされ孤立しているベテラン社員妻鹿があえて登山路を外れる難易度の高い登山「バリ山行」をしていることを知ると……。

「山は遊びですよ。遊びで死んだら意味ないじゃないですか! 本物の危機は山じゃないですよ。街ですよ! 生活ですよ。妻鹿さんはそれから逃げてるだけじゃないですか!」(本文より抜粋)

会社も人生も山あり谷あり、バリの達人と危険な道行き。圧倒的生の実感を求め、山と人生を重ねて瞑走する純文山岳小説。

 浅田氏の『完本、神坐す山の物語』に、山梨の連隊が大菩薩峠を越えて東京の御嶽山で行軍訓練をやっていたとあり、どんなルートをとればそんなことが可能なのだろうと地図で確かめてみたくなった。ググると地形を等高線で示す大変出来のいいものがあって、ヤマップとあった。「そっか、これがヤマップか!」と思わず声がもれたのは、今期の芥川賞を受賞した『バリ山行』で、ヤマップの文字を見ていたからだった。

『バリ山行』のバリとはバリエーションルートの略。社内のレクレーションで登山を始めた波多は、いつも一人でバリエーションルートを“開拓”している妻鹿さんに、「バリに連れてってもらえませんか」と頼んでみたものの、危ないというのを理由に、「ひとりだからいいんだよ、山は」と一度は断られる。しかし気が変わったのか、「じゃあ一回行ってみる?」と。こうして連れて行ってもらった六甲山系(低山)のバリ山行。

 藪を払い(藪漕ぎ)、岩場を登り、舗装道に出た所がゴールかと思えば、また藪漕ぎに戻って腐葉土に足を入れ、鋭く狭い谷に降り、切り立った断崖を前に妻鹿さんは気軽に「懸垂下降したことある?」と聞いてくる。

 初心者の波多の疲労はどんどん増していく。経営方針を変えた会社のことを話題にし、転職組の自分はリストラ対象になっているのではないかという不安を妻鹿さんにぶちまける。すると妻鹿さんはこう言う。

 さっき本物の恐怖を味わっただろう。しょせん会社のことで味わう恐怖というのは、自分でつくり出したもの、幻だよ。山の空気がそうさせるのだろうか。社内では無口で目立たない妻鹿さんに似合わぬ饒舌さ。突き放されたように感じた波多は、感情を爆発させる。

 地図にも記されている安全な一般登山道と、尾根と尾根の間の谷底を藪漕ぎして清流に出会うバリエーションルート。会社におけるその後の二人の対照的な去就が、生活者である我々の胸に何事かの感慨をのこす。

 こんなに読みやすい芥川賞作は前代未聞。サラリーマン小説と登山小説のナイスな融合だ。

 

※「概要」は出版社公式サイトほかから抜粋。