75歳で、陰陽道界のトップに

 晴明は天皇・貴族の卜占や、祭祀、行事や政務などの日程の選定、儀礼の執行などに従事した。

 正確な時期はわからないが、晴明は天禄3年(972)12月より前に天文博士に就任し、20年余の長きにわたり、その任を務めた(繁田信一『陰陽師——安倍晴明と蘆屋道満』)。

 天文博士を辞した後、長徳元年(995)、75歳のとき、晴明は塩野瑛久が演じる一条天皇の時代に、蔵人所陰陽師を務めていたことが、『朝野群載』巻五に収められた長徳元年8月1日付の「蔵人所月奏」(『国史大系 第29巻上』所収)にみられる。

 蔵人所陰陽師は、陰陽寮から独立した、天皇直属の陰陽師である。

 平安後期の右大臣藤原宗忠の日記『中右記』大治4年(1129)7月8日条には(『史料通覧 中右記六』所収)、「一上﨟、蔵人所に候う也」と記されており、陰陽道における最上位の者が、蔵人所陰陽師の任に就くことが定められていたとされる。

 蔵人所陰陽師となったということは、晴明が陰陽道界において、頂点に立ったことを意味しているという(斎藤英喜『安倍晴明——陰陽の達者なり——』)。

 天皇直属の陰陽師といっても、天皇だけがクライアントというわけではなく、藤原氏などからも用いられた。

 晴明は陰陽師として卓越した能力をもっていたようで、「道(陰陽道)の傑出者」、「陰陽の達者」などと称えられた。

 藤原道長の日記『御堂関白記』寛弘元年(1004)7月14日条には、晴明の呪術によって大雨が降り、朝廷から褒賞が授けられることになったと記されている。

 

没年まで現役

 晴明は寛弘2年(1005)12月16日(9月26日説あり)に、享年85で没したとされる。当時では驚異的な長寿であった。

『御堂関白記』の同年2月10日条には、藤原道長の東三条第への引っ越しにあたり、到着は遅れたものの、晴明が新宅の作法という儀礼を行ったことが綴られている。

 また、秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』の同年3月8日条にも、見上愛が演じる中宮彰子の大原野社行啓にあたり、反閇(へんばい)という呪術を行ったことが記されている。

 安倍晴明は没年まで、現役の陰陽師だったのだ。