「アベノセイメイ」ではなく、「アベノハルアキ」だった?

 次に安倍晴明をみていこう。

 安倍晴明は、一般に「アベノセイメイ」の読みで認識されることが多いが、平安時代の男性名としてより自然な「アベノハルアキ」だったと思われる(繁田信一『陰陽師――安倍晴明と蘆屋道満』)。

 晴明は、延喜21年(921)に生まれたとされる。

 康保3年(966)生まれの藤原道長より、45歳年上である。段田安則が演じる藤原兼家(延長7年[929]生まれ)よりも、8歳年上となる。

 晴明の父は大膳大夫・安倍益材(あべのますき)とされ、母は不詳だ。

 誕生地は香川、大阪、茨城の三説が伝わり、確定はされていない。これ以外の地の可能性もなくはないという(諏訪春雄『安倍晴明伝説』)。

 平安後期の説話集『今昔物語集』第二十四には、晴明は幼い頃から陰陽師・賀茂忠行の弟子となり、その道を余すところなく伝えられたと記されているが、それは史料等では確認できない(斎藤英喜『安倍晴明——陰陽の達者なり——』)。若き日の晴明が、どのような日々を過ごしたのかはわかっていないのだ。

 

出世が遅れた理由は?

 安倍晴明は天徳4年(960)、40歳のときに、陰陽寮の「天文得業生」だったとされる。

 天文得業生とは、天文博士の下で学ぶ学生のなかで、成績の優秀な特待生といった感じだという(斎藤英喜『安倍晴明――陰陽の達者なり――』)。

 40歳にして、まだ「学生」というのは、出世が遅い。

 晴明が師事した天文博士は、賀茂保憲(かものやすのり)という。

 賀茂保憲は、先述の『今昔物語集』で晴明が幼い頃から弟子入りしたとされる陰陽師・賀茂忠行の子で、「陰陽師の規範」と称されるほどの優秀な陰陽師であった。

 晴明の出世が遅れたのは、このころ、賀茂氏が長官の陰陽頭を独占していたため、他氏族の安倍氏が入り込むのは難しかったからだという(諏訪春雄『安倍晴明伝説』)。

 前半生は不遇であったかもしれないが、晴明の人生は遅咲きだった。その後、晴明は陰陽道界の頂点へとのぼりつめていく。