父・為時、10年間、無官に
紫式部の父・為時は永観2年(984)、花山天皇が即位すると、式部丞に任じられた。
紫式部の「式部」は、このときの為時の官名に由来するといわれる(関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』)。
為時は六位蔵人に補任され、花山朝において務めを果たしていたが、寛和2年(986)の花山の出家により、花山朝に終止符が打たれると(寛和の変)、為時も停任の憂き目を見た。
以後、為時は10年もの間、散位(位階のみで官職を持たない)のままであった。
この頃のことなのか、紫式部の宮仕えの見聞感想録である『紫式部日記』の、五三「日本紀の御局のあだ名など」には、紫式部の少女時代の有名な逸話が記されている。
『紫式部日記』によれば、紫式部の弟・藤原惟規がまだ子どものころ、漢籍(中国の書物)を読んでいたとき、紫式部はそばで聞き習っていただけなのに、不思議なほど習得が早かったため、父・為時は、紫式部が、「男子でなかったことが、私の不幸だ」といつも嘆いていたという(宮崎莊平『新版 紫支部日記 全訳注』)。
紫式部のこの漢籍の知識は、のちに『源氏物語』に生かされることになる。