取材・文=吉田さらさ 写真=フォトライブラリー

松尾大社

京都の歴史はここから始まった

 今回も先月に引き続き、京都のとっておき神社ご紹介しよう。京都の西の端にある松尾大社だ。最初に知っておきたい大切なことがある。

「松尾大社」は正式には「まつおたいしゃ」ではなく「まつのおたいしゃ」と読む。最寄りの阪急の駅の名称も「まつおたいしゃ」であるし、京都在住の友人たちもそう呼んでいたので、わたしも最近までそのことを知らなかった。

 京都有数の観光地である嵐山からそう遠くないのに、なぜか観光客も京都の人々もこの神社を訪れることが少ないようで、正式名称が案外知られていない。しかしこちらは、実は京都の発祥にもかかわる古い歴史を持つ、大変重要な神社なのである。

 主祭神は大山咋神。この神は滋賀県比叡山の麓にある日吉大社祀られている大きな山を所有する神で、農耕、酒造なども司る。この神社が創建されたのは飛鳥時代とされるが、それよりはるか以前から、このあたりには人の暮らしがあった。彼らは、現在もご神体山とされる松尾山の山頂付近の磐座にこの神を祀り、土地の守護神としていたという。

 その後、渡来人の大集団である秦氏がこの地にやってきて、古くから崇敬されてきた大山咋神を氏神として社殿を建立したという。

 秦氏は秦の始皇帝の子孫であるとも言われ、ルーツはユダヤ人であるなどのさらに壮大な説もあるが、出自は明らかではない。確かなのは、朝鮮半島から渡来し、養蚕、機織り、灌漑、土木などさまざまな分野に渡る先進の技術を日本に広めたということである。

 5世紀にこの地に住み着いた秦氏の人々は、桂川に堤防や堰を築き、水を堰き止めて水路を作り、桂川の両岸を開拓して農耕地とした。景勝地「渡月橋」より少し上流に葛野大堰と呼ばれる堰があるのをご存じの方も多いだろう。

葛野大堰

 今あるのは昭和時代に作られた農業用の堰だが、秦氏が作った堰も同じ場所にあったという。また、その時作られた水路は、現在も松尾大社境内を通っている。当時まだ荒れ野であった京都の歴史はここから始まったのである。