紫式部の父・藤原為時

 紫式部の父・藤原為時は、良房の異母弟・藤原良門の系統だ。

 良門の子・藤原利基の六男が、前述した紫式部の曾祖父・藤原兼輔となる。

 兼輔は、従三位権中納言に昇った公卿で、賀茂川堤に邸宅があったことから「堤中納言」と呼ばれた。

 歌人としても知られ、『百人一首』(27番)「みかの原 わきて流るる 泉川 いつみきとてか 恋しかるらん」の作者であり、三十六歌仙の一人であった。

 紫式部は『源氏物語』で兼輔の歌を、たびたび題材としいている。

 兼輔以外の歴代は公卿になっておらず、兼輔の長男・藤原雅正は従五位下にとどまり、受領(現在の県知事のような職 川村裕子『はじめての王朝文化辞典』)を歴任している。

 雅正の三男が、紫式部の父・藤原為時である。

 為時は、文章生(もんじょうしょう)出身の学者だった。

 

母の死

 紫式部の母は、藤原基経の同母弟・藤原清経の曾孫である藤原為信の娘である。本名は不明だ。

 紫式部の母は、紫式部以外にも、紫式部の姉と、弟(兄とも)の高杉真宙が演じる藤原惟規の一男二女を産んだが、おそらく惟規を産んで間もなく、亡くなってしまったようだ。

 紫式部の日記には、幼い頃の父との思い出は綴られていても、母のことは記されていないため、母の記憶がないほど幼い時に、死別したと考えられている(今井源衛『人物叢書 紫式部』)。

 その後、父・為時は再婚し、後妻との間に、惟通、定暹、女子の三人の子をもうけた。

 だが、為時が後妻と自邸で暮らした様子がないので、紫式部たちと後妻は同居せず、為時が後妻のもとに通っていたと思われる。

 紫式部ら三人の姉弟たちは、母親のいない家庭で、幼少期を過ごしたのだろう。