現役でもアイスショーに出られるように
「私の時代はプロの舞台にアマチュアが立ってはいけないというルールがあったので、現役の選手がアイスショーで滑ることがなかったんですね。そこからルールを変えてプロの舞台でも滑られるようになり、プリンスのアイスショーでも現役のスケーターが数多く出演するようになりました。あるいは『ドリーム・オン・アイス』、これは日本スケート連盟主催のアイスショーですがジュニアの下のノービスクラスでも好成績をあげれば出演することができます。こういった舞台で滑れることが選手の気持ちを高める作用をもたらしています。試合と同じような環境でどんどん滑る機会が増えたことも強さにつながっていると思います」
今日では選手がアイスショーで新プログラムを披露したりするのは当たり前の光景だ。若い世代がプロスケーターを含め先輩と触れる時間でもある。そうした機会もきっと大きかっただろう。
貴重な機会ともなってきたアイスショーは、ただ、観客動員の点で低下してきているのでは、と指摘する声もある。すると八木沼は言った。
「私たちの時代がすごかったので(笑)」
5人程度しかいないアイスショーで滑ったことがあるというエピソードをはじめ、まだ黎明期と言ってよい時代を過ごしてきたから、次のようにも語る。
「良い時代がいつも続いていくことは難しいと思いますし、いろいろな時代が来ても、これまでの創り上げてきたものが繫がって進化していくのではないかと思います。私たちができることは、これから出てくるスケーターたちが安心して滑ることができる環境を作ることもそうですし、維持していくことも大切になってくるのでは、と思います。
だから、例えばテレビの解説の仕事をするスケーター、ショーで滑るスケーター、教えるスケーター、外側からスケートを支えてくださる方たち、そういう方たちの力がないとフィギュアスケート自体が日本の中で続いていくのは難しくなってしまう、と思いますので、それぞれの力を合わせて未来につなげていくということが大切になってくるかな、と思います」
そして自身の抱負を語った。
「インストラクターとしてはスケートを始める人やスケート愛好者の方々を増やす、そういったところは大事になってきます。いろいろなリンクの先生方と連携をとってワークアウトをしたり交流するのも大事だと思いますし、発表会でもいいのでもう少し小さな大会を増やすことができたらと思います。
例えばノービスの級と力をある年齢までに持っていないと出られる試合が1年に1~2試合と本当に少ないのです。級を取れなくて全日本選手権を目指せない、あるいはブロック大会に出られない、そういったところでスケートを断念してしまうといったケースも少なくありません。神宮のリンクでも1年に1回必ず発表する場、エキシビションが1日かけて行われる機会を設けています。子どもたちのために発表する場をもっと作っていくことができれば」
八木沼は、自身にとってのフィギュアスケートをこう表す。
「自分を表す上でなくてはならないものですし、やっぱりフィギュアスケートと出会ったことでいろいろな勉強ができました。今度はインストラクターとして子どもたちに伝えていくことで、フィギュアスケートって素敵なスポーツなんだと、感じ取ってもらえたら」
今日とは競技を取り巻く環境がまったく異なる時代から過ごしてきた。変わることのなりフィギュアスケートへの熱とともに、その未来を形作っていく1人として歩んでいく。
八木沼純子(やぎぬまじゅんこ)5歳のときスケートを始める。1988年カルガリー五輪に第二次世界大戦後では史上最年少の14歳で出場し14位。全日本選手権は8度出場し表彰台に7度上がり、世界選手権は7度出場している。1995年、早稲田大学卒業とともに引退し「プリンスアイスワールド」でプロスケーターとして活動を始める。2013年に卒業。現在は明治神宮外苑アイススケート場でインストラクターを務める。また競技引退後からテレビでスポーツキャスターや解説者などを今日まで続けるなど、さまざまな場で活躍している。