本多忠勝の孫に再嫁
豊臣氏滅亡後、千姫は江戸に戻り、翌元和2年(1616)に、本多忠刻(山田裕貴が演じた本多忠勝の孫)に再嫁した。
当初、千姫と忠刻は伊勢国桑名(三重県桑名市)で暮らした。
だが、翌元和3年(1617)7月、忠刻の父・本多忠政が播磨国姫路十五万石に転封となると、忠刻も播磨国に十万石を賜わり、忠政の居城である姫路城に移り住んだという(『寛政重修諸家譜』)。
千姫は、秀頼との間に子はなかったが、忠刻との間には、長女・勝姫と、嫡子の幸千代を授かった。
しかし、幸千代は僅か3歳で夭逝し、夫・忠刻も寛永3年(1626)に31歳で、死去してしまう。
千姫はまだ30歳であったが、江戸に戻り、同年12月6日に落飾して「天樹院」と号した。
娘の勝姫は、父・秀忠の養女として、寛永5年(1628)に、鳥取藩主・池田光政の室となっている。
その後、千姫は再嫁することはなく、寛文6年(1666)2月6日に70歳でこの世を去り、松嶋菜々子が演じた於大の方(家康の生母)も眠る、伝通院(東京都文京区)に葬られた。
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千姫の養女・天秀尼
最後に、千姫の養女・天秀尼をご紹介しよう。
千姫の最初の夫・豊臣秀頼には、千姫以外の女性が産んだ一男一女がいた。
慶長20年(1615)の大坂城の落城時、男子は8歳、女子は7歳であったという。
男子は国松といい、同年5月23日に、京都六条河原にて処刑された。
女子は、千姫の強い願いもあって命を助けられ(福田千鶴『淀殿 われ太閤の妻となりて』)、千姫の養女として、東慶寺(神奈川県鎌倉市)に入寺した。
彼女はのちに、「二十世 天秀尼(天秀法泰尼)」となり、創建以来の繁栄を極めたという。
千姫は秀頼の娘を守ったのだ。