千姫と茶々は不仲ではなかった?

 一説に、敵方の徳川の姫ということで、茶々は千姫に冷たく接した、あるいは、人質として扱ったともいわれる。

 だが、茶々にとって千姫は、妹の娘である。辛くあたったとは考えにくく、大切に育てられたと想像される(福田千鶴『淀殿 われ太閤の妻となりて』)。

 千姫は大坂城で成長し、16歳となった慶長17年(1612)には、鬢除ぎの儀が行なわれた。

 鬢除ぎの儀とは、男子の元服式にあたる女子の成人儀式である。婚約者、またはその父兄が、成人の証として鬢の先を切るのだ。

『おきく物語』(中村通夫 湯沢幸吉郎校訂『雑兵物語』所収)によれば、碁盤の上に立った千姫の髷を、秀頼が筍刀(式に用いられる小刀)で少し切り初めたという。

 なにやら微笑ましい光景である。

 この儀式により千姫は成人となり、千姫と秀頼は夫婦となったという。

『どうする家康』淀殿(茶々)、親の仇・秀吉の側室となった生涯と秀頼との絆

 

豊臣氏滅亡

 その後、徳川と豊臣は緊張を深め、慶長19年(1614)11月に「大坂冬の陣」が始まった。

 冬の陣の講和で大坂城の堀が埋められ、慶長20年(1615)4月から始まった「大坂夏の陣」により、5月7日に大坂城は陥落した。

 千姫は落城の直前に、玉山鉄二が演じた秀頼側近の大野治長が脱出させ、秀頼と茶々の助命嘆願のため、家康のもとに送られた。

 千姫は夫と義母の助命を請うたが、父・秀忠の判断で拒否されたという(小川雄・柴裕之編著『図説 徳川家康と家臣団 平和の礎を築いた稀代の〝天下人〟』)。

 翌5月8日の朝、秀頼と茶々が自害し、豊臣氏は滅亡の時を迎えた。千姫、19歳の時のことである。

 秀頼と義母で伯母でもある茶々の死を知った千姫は、何を思ったのだろうか。