京都で死去
忠次は、浅井・朝倉連合軍と対決した元亀元年(1570)の「姉川の戦い」、阿部寛が演じた武田信玄に大敗した元亀3年(1772)の三方原合戦、眞栄田郷敦が演じた武田勝頼の軍勢と戦った天正3年(1575)の長篠合戦で、先鋒を務めた。
豊臣秀吉との直接対決となった小牧・長久手の合戦では、城田優が演じた森長可の軍勢を破っている。
忠次は武勇のみならず、武田氏、上杉氏、北条氏などの有力な戦国大名との外交面でも手腕を振るい、織田信長や豊臣秀吉にも、その実力を認められていた。
まさに三面六臂の活躍で家康を支え続けた忠次であるが、天正16年(1588)10月、数え年で62歳のときに、家督を嫡男の酒井家次に譲り、秀吉から与えられた京都櫻井の邸に隠居した。ドラマでも描かれたように、晩年は目を患っていたという。
そして、8年後の慶長元年(1596)10月28日、忠次はその地で死去している。
忠次は本当に「えびすくい」を踊っていた?
最後に、ドラマで繰り返し描かれた忠次の「えびすくい」を取り上げたい。
歌詞や振り付けは不明だが、忠次が、「海老すくい」を踊ったとする逸話は残っている。
天正3年(1575)の「長篠合戦」に際して、徳川の軍勢は武田軍の猛勢に怖じ気づいていたため、家康は忠次に、海老すくいを舞うように命じた。
忠次の海老すくいのおかげで一同は笑いに包まれ、武田軍への恐怖もいつの間にか消え去ったという(「東照宮御実紀」巻3 黒板勝美編『国史大系』第38巻所収)。
また、「東照宮御実紀」巻5(『国史大系』第38巻所収)には、駿河太郎が演じた北条氏政の前で、忠次が「例の得手舞の海老すくひ」を踊り、氏政は太刀を「忠次に引る」と記されている。
『寛政重修諸家譜』にも、天正14年(1586)3月、北条氏政と伊豆国三島で会った際に、忠次は酒宴で「蜆(えび)すくひ」を披露し、氏政が悦びのあまり、一文字の刀貞宗の脇差しを授けたという記載がある。
これらの逸話が真実だとしたら、酒井忠次は場を盛り上げ、敵も味方も惹きつける魅力的な人物だったに違いない。