冨太郎、植物学教室の出入りを許される

 矢田部や松村、大久保らは「植物にとても熱心な男が、はるばる四国からやってきた」と、冨太郎を歓迎した。

 矢田部は「教室の専門書籍や標本を自由に見てよい」と、冨太郎に植物学教室への出入りを許可した。生徒でも職員でもない富太郎が、日本一の学問の場の資料や設備を利用できるのだ。大変な厚遇である。

 富太郎は時間が許す限り、植物学教室に通い、熱心に学んだ。

 冨太郎の精密で美しい植物画は現在でも有名だが、上京後、その才能もさらに磨きがかっていき、やがて、それは植物学者としての強力な武器になっていく。

 矢田部や松村、大久保とは、教室以外でも交流があった。松村は冨太郎の下宿を訪ね、矢田部は冨太郎を松村や大久保と一緒に自宅に招き、ご馳走したという。

 冨太郎は、当時はまだ植物学教室の学生であった、のちに東京帝国大学教授となり、植物生理学と生態学を日本に導入する三好学、「日本藻類学の開祖」となる岡村金太郎、ソテツの精子の発見で知られる池野成一郎らとも親しくなった。

 

従妹の牧野猶と結婚?

 東京で充実した日々を送る冨太郎だが、このころはまだ、ずっと東京で暮らすつもりはなかったようである。

 冨太郎の自叙伝によれば、数年の間、おおよそ1年ごとに、東京と佐川を行き来していたという。

 また、明治19年(1886)以前に、富太郎は祖母・浪子の強い望みによって、従妹の牧野猶と結婚したとみられている。

 牧野猶は、知太郎の母の妹・政の娘だ。女子師範学校を卒業し、岸屋をよく手伝っていたという。

 ただし、入籍には至っていなかったようである(以上、松岡司『牧野冨太郎 通信―知られざる実像―』)。

 この猶について、富太郎自身は何も記していない。

 富太郎が妻と呼ぶのは、壽衛だけである。