秀吉の人質に
一方、五徳は織田家に戻ると、安土城内ではなく、近江八幡市付近で暮らし、信康の妻であったときと同じように、「岡崎殿」と称されたと推定されている(柴裕之編『論集 戦国大名と国衆20 織田氏一門』所収 奥野高廣「岡崎殿 ——徳川信康室」)。
五徳が、再婚することはなかった。
当初は父・信長、信長の死後は尾張清洲で実兄・織田信雄の庇護を受けた。
27歳のときに秀吉への人質に出されたが、そのときの居住地や待遇はわかっていない。
その後は京都で暮らし、寛永13年(1636)正月10日に、この世を去った。
享年78。当時としては、かなりの長寿をまっとうした。
法名は見星院香岩桂寿大姉といい、大徳寺総見院に葬られた(以上、奥野高廣「岡崎殿 ——徳川信康室」) 。
なぜ、再婚しなかったのか
五徳はなぜ、再婚しなかったのか。
その理由は明らかではないが、黒田基樹氏は「信長の娘のなかには再婚している者も多いので、五徳の意志で再婚しなかったのだろう」と推定している(黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』)。
五徳の意志だったとしたら、もう結婚は懲りたのだろうか。
それとも、ドラマのように本当は信康を慕っており、信康の思い出とともに生きることを選んだのだろうか。