信康との結婚
松平家と織田家の同盟の証として、五徳と信康と婚約したのは、永禄6年(1563)3月のことだとみられている(婚約時期は諸説あり)。五徳も信康も、僅か5歳であった。
実際に五徳が輿入れしたのは、永禄10年(1567)5月のこととされる。9歳同士の、幼い夫婦の誕生である。
五徳と信康は、天正4年(1576)に長女の福(登久姫)、天正5年(1577)に次女の久仁(熊姫)と二女に恵まれた。だが、次女の久仁姫が誕生した頃から、不和になり始めたと伝わる。
二人の不仲は事実であり、しかも深刻なものであったとみられている。
徳川家の家臣・松平家忠の日記『家忠日記』には、欠字で読めない部分があるものの、天正7年(1579)6月5日、家康が五徳と信康の「中直し(仲直し)」のために、浜松から岡崎に赴いたと推定される記述がある。
主家の内部事情が家臣の日記に書き残されたということは、五徳と信康の不仲は容易なものではなかったことを示しているという(新編岡崎市史編集委員会編『新編岡崎市史 2中世』所収 第四章 第二節三 新行紀一「信康・築山殿事件」)。
夫の死
通説によれば、五徳は信康や築山殿の中傷を綴った書状を父・信長に送った。
これは『三河物語』(徳川家家臣の大久保彦左衛門忠教が子孫に書き残した自伝)など複数の史料にみられ、事実であった可能性が高いという(黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』)。
五徳の書状が発端となって、天正7年8月29日に築山殿が殺害、同年9月15日に信康が自刃させられた、いわゆる「信康事件」が起きたとされる。
五徳と信康が21歳のときのことである。
信康事件には徳川家臣団の対立などの背景があったといわれ、五徳の書状だけが原因ではなかったと思われる。
しかし、結果として、信康と築山殿を死に追いやるきっかけを作ってしまったのだとしたら、五徳はどのように感じたのか。
信康との不和や書状を送ったことが事実であったとしても、五徳は二人の死まで望んでいたのだろうか。