織田家へ帰る

 信康の死後、五徳はどうしたのだろうか。

 五徳は信康が亡くなってからも、すぐには織田家に戻らず、岡崎城にしばらくの間は居続けた。

 だが、徳川家家臣・松平家忠の日記『家忠日記』には、天正8年(1580)2月20日条に、「御新造様(五徳)を送りに、尾張国の桶狭間(名古屋市緑区)まで行った」と記されており、五徳はこの日に岡崎城を後にし、松平家忠に送られて、桶狭間で織田家に引き渡されたと思われる(新行紀一「信康・築山殿事件」) 。

 

二人の娘たちの行方

 五徳の娘・福と久仁は、徳川家で育てられたようだ(渡辺江美子「織田信長の息女について」 )。

 長女・福は、ムロツヨシ演じる秀吉の命により、信濃の名族で松本城の城主・小笠原秀政に、次女・久仁は家康の命で、本多忠政(山田裕貴演じる本多忠勝の嫡男)に、それぞれ嫁いでいる。

 福は小笠原秀政との間に六男二女を、久仁は本多忠政との間に五人の子を産んだ。

 多くの子宝に恵まれた福と久仁だが、福は慶長12年(1607)10月に32歳で、久仁は寛永3年(1624)6月に50歳で、二人とも母・五徳より先に亡くなっている。