清雲院(於奈津の方、於夏の方)

17歳で56歳の家康の妾に?

 最後に、家康より40歳近く年下の「妾」であった清雲院をご紹介しよう。

 清雲院は、名を奈津(夏)という。

 父親はもと伊勢北畠家の家臣の長谷川藤直、兄は長崎奉行や堺奉行を務めた長谷川藤広である。

 中村孝也『家康の族葉』によれば、清雲院の生年は、天正9年(1581)と推測される。これが正しければ、家康の子・徳川秀忠より2歳年下だ。

 清雲院は慶長2年(1597)、17歳のとき、家康に召されたという。このとき家康は56歳であった(召し出しは慶長元年とも)。

 その後、清雲院は子をなすことはなかったが、家康が没するまでの約20年間、家康に奉公することになる。

 

幸福な老婦人

『家康の族葉』によれば、清雲院は駿府において、晩年の家康に奉仕した。家康からの信頼は大変に厚かったという。

 慶長19年(1614)に開戦された「大坂冬の陣」において、茶臼山まで供奉し、翌年の「大坂夏の陣」では伏見で留守居をしたとされる。

 元和2年(1616)に家康が没すると、落飾して清雲院と号し、駿府を出て、江戸へ居を移した。

「幕府祚胤伝」によれば、江戸城三の丸脇に屋敷を賜り、のちに小石川御門内の屋敷に移り住んだ。

 武蔵国中野に500石の所領を授かり、徳川家一門や幕府の官僚たちからも尊重され、万治3年(1660)9月20日、80歳で、この世を去った。

 大正~昭和期の日本史学者で東京帝国大学教授であった中村孝也氏は、その著書『家康の族葉』の家康の妻妾編で、清雲院を「幸運な老婦人」と称している。

 中村孝也氏の言うとおり、清雲院の人生が幸運なものであったと信じたい。