大岡弥四郎事件

 大岡弥四郎事件とは、信康の家臣の大岡弥四郎と松平新右衛門の二人が中心となって、武田家に通謀した謀反事件である。

 この時期、徳川家は武田家と抗争を繰り広げていた。

 だが、元亀3年(1572)年の「三方原の合戦」で阿部寛が演じる武田信玄に大敗、信玄の死後も、天正2年(1574)に眞栄田郷敦が演じる武田勝頼に、「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝の高天神城を攻略されるなど、明らかに劣勢であった。

 このため岡崎城の信康の周辺では、武田との戦争を続行しようとする浜松城の家康を中心とした主戦派の外交路線に反発し、事件が勃発したとされる。

 ところが家康に発覚し、大岡弥四郎ら首謀者は極刑に処された。

 築山殿も通謀を受け、武田家に内通してたとみられるが、築山殿も信康も罪に問われることはなかった。

 だが、この事件から9年後の天正7年(1579)、築山殿と信康の母子は同時期に、家康によって処罰されることになる。謎多き、「松平信康事件」である。

 

松平信康事件とは

 松平信康事件とは、家康が築山殿を殺害(自害とも)し、信康を自刃させた徳川家を揺るがす大事件だ。

 天正7年8月3日、岡崎城に入った家康は、信康を岡崎城から追放し、大浜(愛知県碧南市)を経て、9日に堀江城(静岡県浜松市)へと移した。

 その後、信康は小手伸也が演じる大久保忠世が城主を務める二俣城(浜松市)へ移され、9月15日に、家康の命により、21歳の若さで自刃した。

 一方、築山殿は信康の自刃よりも先に、8月29日に遠江国富塚(浜松市中区)で殺害された。

 家康と同じ年齢ならば38歳、2歳年上ならば40歳であった。