鎌倉最大の悲劇の黒幕は?

 三代別当の定暁の死去を受けて、政子は公暁を四代別当に就任させることに決めた。

 公暁は政子に呼び戻され、建保5年6月20日、久しぶりに鎌倉に戻った。そして、10月に、わずか18歳で鶴岡八幡宮別当に補任された。

 だが、公暁に別当としての公的な活動はみられない。

 公暁は別当となってすぐに、宿願のため、10月11日から一千日の参籠(神社や仏堂などに一定期間引き籠り、神仏に祈願すること)をはじめている。

『吾妻鏡』建保6年(1218)12月5日条には、公暁が参籠したまま、まったく外に出ない。祈願をして髪も剃らないので、人々が怪しんでいる。

 また伊勢神宮をはじめ、その他の諸社に使節を送ったという報告が、実朝になされたという記されている。

 公暁は何のために、人々が怪しむような参籠をしたのだろうか。

 坂井孝一氏は、実朝への呪詛の祈祷をしていた可能性が高いとしている。

 子どもがいない実朝にもしものことがあれば、公暁は将軍の最有力候補といっていいだろう。

 還俗して将軍になったときのために、髪を剃らなかったのかもしれない(『承久の乱』)。

 公暁の真意はわからないが、翌建保7年(1219)正月27日、彼は悲劇の幕を開けた。

 鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式を終えた実朝を太刀で斬りつけ、首を刎ねたのだ。公暁、20歳のときのことである。

 公暁は乳母夫の三浦義村へ使者を送り、「将軍はいなくなった。私が次の将軍になるから、そのように取り計らうように」と伝えた。

 だが、義村は北条義時に報告すると同時に、三浦氏の家人の長尾定景らを討手に差し向けている。

 一方、公暁は義村からの返事が遅いため、義村邸へと向った。その途中で長尾定景らと遭遇し、誅殺されてしまった。

 この一連の事件の背後には、公暁をそそのかした黒幕がいたといわれる。黒幕も、北条義時説、三浦義村説、後鳥羽上皇説など様々である。

 だが、最近では黒幕は存在せず、公暁の単独犯行とみる研究者が多いようだ。

 尾上松也演じる後鳥羽上皇の皇子を実朝の後継将軍に擁立するとの計画を耳にし、実現してしまったら、自分は将軍になれないと思い、実朝の暗殺を決意したのかもしれないとの見方もある。

 真相は定かでないが、三代将軍実朝が甥の公暁の手で命を奪われ、その公暁もまた、若くして殺害されたことは確かであろう。まさに、鎌倉最大の悲劇である。