「こうぎょう」、それとも、「くぎょう」?

 比企の乱により、比企氏は滅亡。

 ドラマでは比企氏の滅亡に際して、公暁はボロボロの姿となった草笛光子演じる比企尼から、「あなたこそが次の鎌倉殿になるべきお方。北条を許してはなりませぬ」と、呪いの言葉のように繰り返されている。

 もし、本当にこのようなことがあったとしても、このとき公暁は数え年で4歳、比企尼の言わんとしていることは、わからなかっただろう。

 その後、公暁の叔父にあたる、柿澤勇人演じる源実朝が鎌倉殿を継承、征夷大将軍に叙任した。

 父・頼家は伊豆修善寺に流され、兄の一幡は北条義時に誅殺。翌元久元年(1204)7月には頼家も惨殺された。

 比企氏と血縁がない公暁は、命を奪われることはなかったが、他の頼家の遺児と同様に、仏門に入ることになる。

 元久2年(1205)12月2日、公暁は祖母・北条政子の計らいにより、鶴岡八幡宮の二代別当・尊暁の門弟となった。公暁、六歳のときのことである。

 北条政子は、頼家の遺児である公暁に、ゆくゆくは鎌倉宗教界の頂点である鶴岡八幡宮の別当(寺院のトップ)を継がせようと考えたのだろう。

 翌建永元年(1206)10月20日、政子の仰せにより、公暁は三代将軍・源実朝の猶子(相続権のない養子)となった。

 5年後の建暦元年(1211)、12歳のとき公暁は出家し、尊暁の後に鶴岡八幡宮の別当となった定暁とともに上洛。源氏と関わりの深い天台宗寺門派総本山の長等山園城寺(三井寺)に入り、園城寺の高僧・公胤(こういん)の弟子となった。

 そして、師から「公」の字を賜り、法名を「公暁」に改めている。

 坂井孝一氏によれば、公胤(こういん)にみられるように、園城寺の慣例では法名を漢音で読んだ。公胤の師である公顕も「こうけん」と呼ばれていた。

 ゆえに公暁も、「こうぎょう」、あるいは、「こうきょう」と読まれていた可能性が極めて高いという(『考証 鎌倉殿をめぐる人々』)。

 公暁は園城寺で、修行に励んだようである。

 6年後の建保5年(1217)、公暁の運命は大きく動くことになる。5月11日に、鶴岡八幡宮の三代別当の定暁が亡くなったのだ。