文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)

写真=アフロ

嬉しさを言葉と体で表現する

 久しぶりに友人や恩師、お世話になって人に会ったときは、とても嬉しいものです。『論語』の学而(がくじ)篇の冒頭には「学びて時に之を習ふ。亦(また)説(よろこ)ばしからずや」に続いて「朋(とも)有り、遠方より来たる。亦楽しからずや」という孔子の言葉があります。

「遠いところから、友人が訪ねて来てくれた。こんなに楽しいことはない」と、孔子も言っているのです。

 ここで「友」ではなく、「朋」という字を使っているところに注目してください。

 友達、友人というときにもよく使われる「友」は、右手と左手を合わせた形からできた漢字で、お互いが助け合う関係を表します。

「朋」は今は月をふたつ書きますが、もともとは肉をふたつ書き、肉体がふたつあるということを表す字です。つまり、友達であっても対等な関係ということなのです。

 また、「有」という字は「滅多にない」という意味があることから、「朋有り」は、議論ができ、なんでも言える滅多にない対等な関係の友人がいる、ということです。

 そんな友人と久しぶりに会ったらどうでしょう。

「亦楽しからずや=こんなに楽しいことはない」となるのですが、ただ楽しいだけではありません。

「楽」という字は、巫女が鈴を両手に持って踊っているところからできた漢字とする説もありますが、論語の述而(じゅつじ)篇では「憂いを晴らす」という意味で「楽」が使われています。

「憂」の上の部分は頭を表します。中央に心がありますが、上は塞がっています。下の部分は足が動かなくなっている状態を表していることから、いくら頭や心で考えてもどうしたらいいかわからず、動くことができない様を表しているのです。

 つまり、友達と話すことで自分がわからなかったことが、「そういうことだったのか! そういうことなのか!」と明らかになっていくということです。

 また「楽」の字にある「白」には、心が透明になる、という意味があります。

 久しぶりに会った友人と話して、わからなかったことがわかる、悩んでいたことの答えが見つかる、心が透明になって本当に嬉しい、と孔子はここで言っているのです。

 今の時代の人間関係は友人といえども相害関係があったり、気を使う必要があったりして、議論を戦わせたり、なんでも言い合える関係を築くのがなかなか難しいのではないでしょうか。久しぶりに会ってもそのような会話ができる友人を、もちたいものですね。

 ちなみに明治・大正を代表する政治家、山縣有朋の名前は論語のこの言葉に由来しています。