(3)承久の乱

 実朝には跡継ぎがいなかったため、源氏将軍は三代で途絶えた。

 幕府は朝廷と交渉し、天皇家に次ぐ権威をもつ摂関家から九条道家の子・三寅(後の頼経)を四代将軍の候補者として、鎌倉に迎えた。

 鎌倉下向当時、三寅は僅か2歳であったため、三寅が幼少の間は政子が幕政を主導することとなった。政子が征夷大将軍に就任した事実はないが、いわゆる「尼将軍」であり、実質的な鎌倉殿であった。政務全般は、義時が取り仕切った。

 しかし、後鳥羽上皇と良好な関係を築いていた実朝が暗殺されて以降、幕府と朝廷の関係は悪化の一途を辿っていった。

 そして、実朝の暗殺から二年後の、承久3年(1221)5月15日、後鳥羽上皇は北条義時追討の命令を発する。義時は「朝敵」となったのだ。義時の三度の難の最後のひとつ、承久の乱の幕が開けた。

 この未曾有の危機に際して、鎌倉の御家人たちは、尼将軍・政子による有名な演説で心を一つにしたといわれる。

 5月22日、まず坂口健太郎演じる義時の嫡子・北条泰時が僅か18騎を率いて出陣し、後を追って軍勢が次々と鎌倉を発った。幕府軍は各地で朝廷の軍勢を破り、6月15日に京都を制圧、義時追討の命は撤回された。

 上皇に味方した武士や貴族の所領は没収され、後鳥羽をはじめ三人の上皇が配流となった。義時は最後にして最大の難も、大勝利で飾ったのだ。

突然の死

 承久の乱後も、政子と義時が幕政を主導した。

 義時は鎌倉で政務に謀殺されていたが、貞応3年(1224)6月12日に発病し、翌朝に急死した。享年62、血で血を洗う抗争を勝ち抜き、北条氏の支配および、武家政権の礎を築き上げた、波乱に満ちた人生であった。

 義時の急死は「伊賀氏の変」という新たな陰謀事件を呼び寄せるのだが、それはまた、機会があれば、ご紹介しよう。