【ネタバレあり】義時「生涯、三度の難」

(1)和田合戦

 義時の「生涯、三度の難」の始まりは、建暦3年(1213 12月に建保と改元)5月に勃発した和田合戦である。

 横田栄司演じる侍所別当・和田義盛は、彼の子息や甥が謀反計画に関与したとされ、義時から厳しい処分を下された。これらのことから、義盛は北条義時との対立を深め、義時打倒の兵を挙げた。

 二日間にわたって大激戦が繰り広げられ、和田義盛は健闘空しく一族ともに討死した。

 三度の難の一つをからくも勝ち抜いた義時は、政所別当にくわえ、義盛に代わって侍所別当にも就任した。義時、51歳のときのことである。政所別当と侍所別当を兼ねる――これが執権であるという(鈴木由美『中先代の乱』)。

『鎌倉殿の13人』侍所別当・和田義盛の生涯と巴御前との行方

 

(2)実朝暗殺

源実朝

 二つ目の難は、三代将軍・源実朝の暗殺である。

 建保7年(1219年4月に承久に改元)正月27日、鶴岡八幡宮での拝礼を終えた実朝が、突如、甥(兄・頼家の遺児)の公暁に殺害されるという、前代未聞のショッキングな事件が起きた。

 このとき実朝の近臣・源仲章も殺されているが、実は公暁が狙っていたのは義時だったという。

『吾妻鏡』によれば、義時は事件の当日、実朝の御剣役(将軍の側近くで剣を捧げ持つ役)を務める予定であり、公暁はそれを知っていた。

 ところが、義時は急に心神が乱れたため、御剣役を源仲章に譲り、自邸に戻ってしまう。公暁はそれを知らず、仲章を義時と見誤って殺害したのだという。

 あまりに出来過ぎた話であるが、真実ならば大変な強運だ。

 この実朝の暗殺事件の真相はあきらかでなく、義時が黒幕であるともいわれる。

 いずれにせよ、義時は二つ目の難も、無事に乗り越えたのだ。