ひとつのミスを1年追及
この年、さいたまスーパーアリーナで世界選手権が行われた。重田はプラクティスリンクでミキサー役を担っていた。
「心に残る」話は、あるスケーターの姿だ。
「女子のフリー前日のことです。この日は2回、プラクティスリンクでの練習が予定されていましたが、その2回目の最終組で参加されたのは鈴木明子さんとカロリーナ・コストナーさんだけでした」
鈴木は先にリンクを上がり、やがてコストナーも上がった。
「リンクアウトして、クールダウンもして荷物もまとめたあとです。練習時間が残り1分のコールがかかったとき、コストナーさんはリンクに戻ってきました」
このときは有観客で練習が行われていた。
「戻ってくるとリンクを1周して見ている観客の方々に挨拶をしました。観客の方とのコミュニケーションを大事にされていて、コストナーさんの人柄に触れた気がしました」
大会後にはエキシビションがあった。このときはさいたまと大阪の双方での開催だった。そして大阪は、重田が統括の役割を担う最初の舞台となった。だがこのとき、事故が起こる。
「コストナーさんのとき、曲が止まったのです。パソコンのソフトウェアのトラブルでした」
プラクティスリンクでのコストナーの姿が焼き付いていたから、なおさら悔いは募った。
しかもこれに先立つさいたまのエキシビションでも、樋口新葉の演技中に曲が止まった。
「音楽データの仕込みミス、つまりヒューマンエラーでした。そこからの1年、曲が止まらないシステムはどういうものなのか、追求しました」
その延長上に今日がある。
「相手のことを第一に考えなければいけないというのが根底にありますが、それは前の部署での経験がつながっているような気がします」
重田は言う。ここでその足跡をたどってみたい。
「中学校の頃にあるアーティストさんのファンになったのをきっかけに、音楽に興味を持つようになりました。岩崎宏美さんです。そのとたん、不思議ですけど音楽を勉強し楽譜の読み書きができるようになり、そうこうして仲間と演奏を始めました。その中でPA、録音という役割をする人間が必要になって交代交代でやっていて、将来を決めようと思ったときに技術の方で進んでいこうと」
ヤマハに入社し、テレビ音楽やCM音楽を作る部署に配属。スタジオで作業に従事していた。
「趣味を仕事にしたようなものなので、そうなると主張というか自分のこだわりって強いじゃないですか」
その姿勢に、ある作曲家が疑問を投げかけた。
「いろいろ指導していただいて、気づいたのはドラマの音楽ならドラマのためであるしCMならCMのためであるということ。自分を主張するためではないということでした。『自分がこうやりたい』ではなく、その先にいる人のために、という感覚が強くなっていきました」
それが今日につながっているという。
「スケーターのために、正確に確実に音を出す。次に観客の皆さんのために音を出す。観客の皆さんが演技と一体となって盛り上がるとスケーターにフィードバックされる。その橋渡しこそ、我々の仕事です」
担当するようになる前から観ていたフィギュアスケートだが、仕事でかかわる中で、思い入れもより深まってきた。
「スポーツであると同時に芸術性が高いし、知れば知るほど興味深いです。選手がひたむきに取り組んでいる姿も、魅力にあふれています」
ひたむきな選手たち――中でも忘れられない1人のスケーターがいる。 (つづく)
重田克美(しげたかつみ)
音響プロデューサー。1987年、(財)ヤマハ音楽振興会開発部スタジオアシスタントとしてキャリアのスタートを切る。以降、録音スタジオをホームグラウンドに音楽録音エンジニアとして活動。2009年、仕事の軸をPA中心の音響業務へ移す(2017年、(株)ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングスに事業吸収)。フィギュアスケートのほかバレーボールのVリーグ、7人制ラグビー、トライアスロンなどの会場音響設計に携わる。