なぜ、戦時中にワイン生産が急増したのか
ワインにはリンゴ酸やクエン酸という酸が含まれているのですが、ブドウ特有の、そして、ワインの酸度を左右する重要な酸として酒石酸という酸があります。この酒石酸は、やはりブドウ果汁に含まれるミネラルと結合すると、キラキラと美しい、結晶をつくります。
この結晶、ワイン醸造用のタンクや、場合によってはコルクで見かけることもできるのですが、これを集めてナトリウムやカリウムを加えると、酒石酸カリウムナトリウムという化合物ができて、これをロッシェル塩などと呼びます。
このロッシェル塩、イヤホンやマイクなどの圧電素子として利用でき、戦時中は戦艦のスクリュー音などを探知する水中聴音機の材料にされていました。これを日本は求めたのです。
国税庁のホームページにある情報によると、1944年度の果実酒の課税石数は、約1301万リットル。それが、1945年度には約3420万リットルと、2.6倍も増加したそうです。同じく国税庁にあるデータによると、2018年で日本ワインの生産量は1661万リットル。日本ワイン以外の国産のワインで6571万リットル。あわせて8232万リットルだそうですから、どれだけ戦時中にワインが急増産されたのかがわかります。
結果的に、ワインの品質は二の次になりました。戦時中はそれでよかったのです。
しかし「戦時中、この辺の人たちはみんな潤ってた。でも戦後は、砂糖と色素を入れてアルコールを加えたみたいなワインばかりになって、この辺のワインは売れなくなっちゃってね」。
2018年、筆者が取材させてもらった、林農園、ワイナリーとしては五一わいんの林幹雄さんは言いました。
最初は「全然ダメ」だった
桔梗ヶ原でワインの醸造が始まったのは、1897年。豊島理喜治という人物が、1ヘクタールの土地に、コンコード、ジンファンデル・ハートフォード、ナイヤガラなど26品種、約3000本の苗を植え、さらに、ワイン造りのための会社を設立したといいます。
林農園の創業者、林五一がブドウ栽培を始めたのが、そこから21年後の1911年。ワイン造りを始めたのが、1919年とされています。豊島理喜治、林五一に、大きな影響を与えたのが、前回、話題にした川上善兵衛です。川上善兵衛のおかげもあって、林五一は、早い段階から欧州系、つまりヴィティス・ヴィニフェラのブドウにも挑戦していたそうです。その挑戦の結果は林五一の息子、林幹雄さんによると、「全然ダメ」だったそうなのですが、結局、この経験が、後の日本ワインを変えた、と筆者は言いたくなります。
一般的には1964年、東京オリンピックを契機に、日本人の好みは人工甘味ワインから本格ワインへ移った、とされているのですが、林幹雄さんの話からすると、危機感はもっと前からあったようで、1951年、林五一、幹雄親子は、山形県の赤湯の五一の知り合いのところから、メルローの枝を一本もらって帰ったそうです。
そして、このメルローを大切に育てました。桔梗ヶ原は現在よりさらに寒く、メルローは当初、実を結ばなかったといいます。樹に藁をまいたりして、厳しい寒さと戦い、病害虫とも戦い、お手本などないので、すべて試行錯誤。あの手この手の努力と愛情を注ぎ、やがて温暖化も味方となって、メルローは実を結んでゆきました。