デジタル化の波は今やどの産業にも訪れ、ここへの対応力が各社未来の事業の命運を握っているといっても過言ではない時代。特に印刷業界はこの変動が大きく減少する印刷ニーズをデジタル変革によってどのように新しいビジネスへと転換できるかが試されている。
またちょうど事業承継の時期とも重なり経営変革をも余技なくされる会社も多い。そんな中ぬぐいきれない不安を抱きながらも、事業承継を決断した若き社長たちがいる。
彼らは、目の前にある困難をいかに乗り越え、新しいフロンティアを切り拓こうとしているのか。これからの印刷業界の未来を担う社長たちの想いとは。第一回目は、株式会社精工 代表取締役社長 林正規氏に話を聞いた。
予想だにしなかった社長就任までの軌跡
——精工さんは明治44年(1911年)創業とのことですが、まずはその歴史から教えていただけますか。
林正規氏(以下、林氏) 私が4代目に当たるのですが、1代目は私の曽祖父。大阪証券取引所の株券や銀行の通帳など、活版印刷をしていた町の印刷工場でした。
そして、2代目のおじいさんのときに、第二次世界大戦が勃発した時代です。戦後、おじいさんが日本に帰還してみると、大阪大空襲で工場はすべて焼け落ちていた。そのような中でも、おじいさんは前向きな人だったので、近所の焼け残った印刷会社さんのお力を借りながら、戦後初の農業資材の問屋をスタートさせました。
それを3代目の父が継いだのですが、問屋業では、食の安心・安全といった自分たちがこだわりたいところに対して、何も決定権を持てないことを嘆き、1990年に再びメーカーとして始動することにしたんです。
——林社長は子どもの頃から会社を継ぐつもりはあったのですか。
林氏 いいえ、とんでもない。僕は、大阪芸術大学出身で、経営学などは専攻していませんでした。卒業後は、公共施設や都市公園のランドスケープデザインをやっている会社に入って、ゼネコンや役所に飛び込み営業をしていました。
しかし、公共事業費削減の流れで材料費が削られてしまうようになり、自分が思い描くものができなくなってきたので、3年で退職を決めました。
退職後、これからどうしようかと考えていた際に、父が「せっかくだから留学でもしてみたら」と声をかけてくれて、中国語を勉強するために台湾に1年間留学することにしました。兄と妹がいるのですが、二人も留学経験があったので、「子どもたちには、平等に教育を受けさせたい」と考えていた父が背中を押してくれました。今、機械の買い付けにひとりで行けるのは、そのとき勉強させてもらったおかげですね。
——ということは、留学に行かれる前には、お父様から将来の事業承継のお話はあったのでしょうか。
林氏 留学して1年が経ち、そろそろ帰ろうと思っていたら「就職先も決まってないのに、帰ってくるな」と言われてしまって。「帰ってくるなら、うちの工場へ行け。工場からやったら、入れてやる」と言われたんです。帰国した翌日には、仙台に行き、宮城工場で約1年間、グラビア印刷や製袋などの研修をしました。2000年のことです。
ちょうど研修が終わるころに、父がインディゴ社(当時、現HP Inc.)のロール対応デジタル印刷機「オムニアス」を購入したんです。これが僕のデジタル印刷との出会いでした。
うちのコアなビジネスは農産物の包装資材の印刷です。重量ベースでいくと25%くらいのシェアを持っている。本当はそれをデジタル印刷でやりたかったのですが、当時の機械は広幅が対応していなくて、軌道に乗るまでは相当長い年月がかかりましたね。
——工場から本社に戻られてからは、どのようなお仕事をされていましたか。
林氏 宮城工場で1年間の研修を経て、その後は約10年間、東京を拠点に全国のお客様を対象に営業をしていました。一般社員として、デジタル印刷の飛び込み営業を必死でやりました。それはもうありえないくらいの数を。僕が新規開拓したお客様だけでもかなりの数はあると思います。