伊丹万作、佐伯清、黒澤明。人と人が繋いだ『羅生門』の誕生
橋本忍がシナリオライターを目指したのはひょんなことからである。結核で兵隊さんに取られなかった橋本は、結核療養所で療養中、隣の青年が読んでいた雑誌『日本映画』を「よかったらお読みになりますか」と渡される。そこにシナリオがあった。
生まれて初めて見たシナリオだったが、この程度なら自分のほうがうまく書けると、根拠なき自信をみなぎらせる(ここが実に橋本らしい)。橋本は隣の青年に聞く。「これを書く人で、日本で一番エラい人は誰ですか?」「伊丹万作という人です」。
こうして京都の伊丹に自分の書いたシナリオを送り、伊丹から返信をもらい、同病で床に伏していた伊丹の通い弟子になってしまう。脚本の弟子を持たなかった伊丹が懇切丁寧に指導したのだから、橋本に才能の片鱗のようなものを見いだしていたに違いない。
伊丹は敗戦後の翌年、46年9月に死去。橋本は心の支えをなくして書く気力も失うが、椎間板ヘルニアの大けがを負って会社も欠勤せざるを得なくなったとき、暇つぶしに芥川龍之介の『藪の中』をシナリオにしてみようと思いつく。夏目漱石は何度も映画化されているが、芥川はまだ手つかずだった。
これが黒澤明との縁のきっかけとなる。まず伊丹夫人が夫の一周忌で、助監督時代に伊丹に師事していた佐伯清監督に橋本を紹介する。佐伯は伊丹万作が高く評価していた黒澤と仲がよかった。そこで橋本は佐伯に頼む。黒澤さんに脚本を読んでもらえないだろうか。
こういった一連の流れを読むと、昔の人達は、なんと力を惜しまず人と人を繋いでいたことかと感心する。現代で規模は小さくとも似たようなことをすると、なにか利害関係があるのではないかと勘ぐられるのがオチである。
閑話休題——。佐伯監督に脚本を託して半年以上1年未満の頃、ある葉書が舞い込む。あなたのシナリオを黒澤明が次回作として撮ることになりました。ついては打ち合わせの必要があります。なるべく早く上京していただけると幸いです。橋本は「天からのボタ餅のような一大転機だった」と、1964年のキネマ旬報4月号に寄稿している。
打ち合わせの要があったのは、『藪の中』は一本の映画にするには短すぎたからだった。『羅生門』と組み合わせたらどうだろうと提案したのは、橋本によれば橋本で、黒澤によれば黒澤。まさしく藪の中。しかしこのドラマはまだ続く。
ヘルニアが悪化して歩行困難になった橋本に替わって、『羅生門』の決定稿を書いたのは黒澤だった。橋本は黒澤が書いたその結末を「破綻」「付け焼き刃」と断じ、意を決して見解の相違をぶつけに行く。黒澤邸で黒澤と“対決”するシーンは、『複眼の映像』の中でも、研ぎに研いだ鋭利な白刃がひときわ光るシーンだ。
ところが、である。橋本はこの『鬼の筆』で春日さんにアッケラカンとこう語る。「人間というのは錯覚があるのかしら。僕が違うと思った黒澤さんのラストは、すでに僕が第二稿で書いていたんだ。黒澤さんが決定稿で間違えたと思っていたけれど、それは僕がやったことだったんだ」。
これをのけぞると言わずして何と言う!? 耳を疑った春日さん同様、私もひっくり返ってしまった。ここで検証の詳細は省くが、『複眼の映像』に書いたことは、確かに橋本の錯覚だった。
春日さんは途方に暮れる。これでは資料価値の高かった『複眼の映像』の信憑性が大きく揺らぐ……。寄る辺ない気持ちで荒野に立たされた春日さんを想像し、つい笑ってしまった(ごめんなさい)。
『羅生門』は1950年国内で公開され、翌1951年ヴェネチア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を受賞する。さらに、1952年の第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の外国語映画賞)も受賞。シナリオデビュー作でこのような栄誉を引き当てる脚本家というのも稀有だろう。ただ「世界のクロサワ」へと飛翔する黒澤の陰で、橋本の名はさほど注目されなかった。
当時の橋本はスーツを着て髪を七三にわけた関西の中小企業のサラリーマン。『羅生門』の新聞広告を見て「ハシモトシノブってめったにある名前じゃないぞ」といぶかる社長に、まだサラリーマンをやめる決心のついていなかった橋本は「同姓同名ですよ」と誤魔化す。その程度の身内知名度でしかなかった。