黒澤の「シナリオの助手さん」からの脱皮。『真昼の暗黒』『切腹』

『切腹』 写真=Ronald Grand Archive/Mary Evans/共同通信イメージズ

 51年秋に単身で上京。黒澤邸の近くに住みながら、黒澤との共同脚本書きに精を出す。「あと七十五日しか生きられない男」というお題から『生きる』(52年)が、「次は時代劇を撮るぞ」との大号令の下で、上映時間約3時間半の超大作『七人の侍』(54年)が生まれる。駆け出しの橋本は期せずして、のちに黒澤明の代表作とされる3本にかかわったことになる。

 橋本忍が率直すぎるほど率直だと思うのは、8ヶ月かかった『七人の侍』のシナリオ完成後、ようやくこれで黒澤から離れられると爽快な解放感を味わったことを隠さないことだ(もちろんこれで縁は切れなかったのだが……)。それほど千本ノックをこなしたということ。そのおかげで、これからはなんでも書けるという自信もつける。

 その自信の裏側には、自分は「選ばれた人だ」という思いがあったと春日さんに語る。自分は伊丹万作のただ一人の脚本の弟子であり、黒澤組で習練する機会にも恵まれた。伊丹万作は亡くなったから、もう誰も教わることができない。だから自分は「選ばれた人だ」と。

 傲慢にも不遜にも思える発言だが、橋本忍という人は、自分をも群衆の中の一人として俯瞰で見るクセがあるように思う。自分を“上げている”わけではなく、群衆一人一人を見分け、個性付けをしていく中に自分もいるのではないか。男性の精神構造のことはよく分からないが……。

「映画は脚本が8割」と言ったのは、三谷幸喜も敬愛する名脚本家にして名監督のビリー・ワイルダー。それに比して、日本では脚本の重要性はさほど認識されていなかった。

 橋本もそこが不満だった。『羅生門』が国際的な賞を獲っても、黒澤の「シナリオの助手さん」というような認識しか持たれていない。黒澤に「日本一の助監督」と言わしめた野村芳太郎ですら、そう思っていたと述懐している。

 一躍橋本忍の名が知れ渡ることになるのは、『七人の侍』から解放されて、初めて自分のために書いた『真昼の暗黒』である。少年4人が被告となったミステリー仕立ての裁判劇で、橋本は係争中であったにもかかわらず、これを冤罪事件として描く。そのため最高裁や映倫から制作中止の圧力がかかったという曰く付きの作品だ(今井正監督)。

 国家の裁判制度という無慈悲な鬼に金棒でぶん殴られ、不条理の底に突き落とされた少年達。橋本のジャーナリスティックな批評精神も社会派として絶賛された。しかし、ここでも橋本翁は春日さんに思いがけないことを打ち明けて唖然とさせる。

「国の裁判制度を批判しようと思って書いたものじゃないんだ」「そりゃあ理屈は言うよ。国家の巨大な歯車に絡まれたらどうしようもないとか」「そう言った方が通りがいいから」。でもね、あれは当時三益愛子さんの母もの映画が当たっていて、そっちを狙ったの。「無実の罪になっている人が四人」「みんな母親や恋人がいる」「つまり四倍泣けます母もの映画」だった、と。

 なんという食わせもの! 橋本の俗気に思わず吹き出してしまった。巨大な「鬼」に虐げられる人々を描く一方で、橋本の中にも茶目っ気の小鬼、俗気の小鬼、ギャンブラーの小鬼などが棲んでいたと、私は見立てる。

 ルキノ・ヴィスコンティの『山猫』とカンヌでパルムドール賞を争った『切腹』(小林正樹監督 63年カンヌで審査員特別賞受賞)を、書けると確信した瞬間を語る話には夢想の小鬼が登場する。

 橋本はそれ以前に訪れたカンヌで『尼僧ヨアンナ』のポスターを目にし、“自分が書いた脚本の映画がカンヌに出品されたらどんなポスターになるんだろう?”とふと思う。そのとき書きあぐねていた滝口康彦の原作の芯が「切腹の座についた侍の恨み節」だと閃いたと春日さんに打ち明ける。

 カンヌ、海辺のベンチ、地中海の陽光、そしてまだ脚本にもシャシンにもなっていない架空のポスターへの夢想。それが現実となってヴィスコンティと争うのだから、名誉のようなものを追い求める小鬼もいい働きをする。

 橋本忍は映画会社がスターで客を呼ぶスターシステムを取る中で、スターありきの「当て書き」もしなかった。演じる人間が決まっていてはつまらない。誰が演じるか分からないから自由に書ける。

 シリーズ作品もダメ。勝新(勝新太郎)から直々に座頭市シリーズへの参加を求められたが、「しんどくて」断った。固定化したイメージが、橋本忍の創作意欲を刺激しなかったようだ。

『七人の侍』以降、自律した活動期を迎えた橋本が映画史に刻んだ作品を、ここで改めて(黒澤映画はあえて除き)ざっと書いておこう。

 映画全盛の50年代は、少年達の冤罪事件を扱った『真昼の暗黒』(56年)、モノクロの初のシネスコワイドで撮られた清張原作の『張込み』(58年)、著作権問題が浮上した『私は貝になりたい』(59年)。この映画では、著作権について猛勉強した橋本は学者並みの学識を身につけ、国の法整備にもアドバイザーとして関わる。

 テレビや多様な娯楽に押されて映画が衰退していく60年代は、サスペンスドラマといえば断崖絶壁というほどロケ地の定番化を招くきっかけとなった松本清張原作の『ゼロの焦点』(61年)、カンヌに出品された滝口康彦原作の『切腹』(62年)、山田洋次監督が唯一他人(橋本忍)のシナリオで撮った松本清張原作の『霧の旗』(65年)、山崎豊子原作の『白い巨塔』(66年)、大宅壮一原作(というのは名義上で、実際は半藤一利作品)の『日本のいちばん長い日』(67年)。

 70年代に入ってからは大作が続く。池田大作の小説を映像化した『人間革命』(73年)、小松左京の大ベストセラーを特撮パニック大作に仕上げた『日本沈没』(73年)、松本清張との14年来の約束を果たすために橋本プロを設立して映画化に乗り出した『砂の器』(74年)、新田次郎原作の『八甲田山』(77年)、横溝正史原作の『八つ墓村』(77年)。

 橋本忍の名を知らない人でも、ああ、あの映画かと思い当たる人も多いのでは?