松本清張をして「原作を超えた」と言わしめた『砂の器』
さて、シナリオライターはどこまで原作をいじれるのかという問題に立ち戻れば、『砂の器』にとどめを刺す。
『砂の器』は新聞連載小説で、橋本をして「まことに出来が悪い」「生理的に読めない」と嘆かせた。しかし『張込み』以来の清張さんとの縁。むげに断れない。
若き日の山田洋次と島根の亀嵩へ取材に行き、父子が歩いたとされる道を歩きながら、橋本は突然山田に話しかける。「そういえばあの小説には“その旅がどのようなものだったのか、彼ら二人しか知らない”という二十字くらいの描写があったよな」。「ありました。憶えています」(山田)。
「それじゃ洋ちゃん、父子の旅だけで映画一本作ろうや。他の所はいらん」。山田が驚いて「できますか?」と尋ねると、橋本は言い切る。「できなくったってそれ以外に方法はないんだよ」。
帰京してすぐに宿に籠もり、わずか3週間という早さで出来上がったのがあの『砂の器』のシナリオだった。刑事達の捜査行の部分は大胆に縮められ、原作では亡くなっていた父の本浦千代吉がシナリオでは存命する設定になっていた。
松本清張作品にお世話になった者として、あまり大きな声で言えないが、余分なものがそぎ落とされた映画版は原作よりよほどスッキリしている。原作は電子音楽や、電子音楽スタジオで(周波の働きを利用して?)女性を堕胎させるなど、なんだかとても前衛チックなのだ。
死者をも蘇らせる大改変。しかしこれが松本清張をして「原作を超えた!」と言わしめる。微かに流れる通奏低音を掘り起こし、前衛に流れた清張の筆を真の節に戻す。これもまた脚本の大いなる働きに違いない。
外国映画祭で審査員も務めるある高名な映画関係者と『砂の器』の話になったとき、彼女が「あの延々と続く日本の四季の絵葉書みたいなシーンがどうもねえ。大袈裟な音楽も……」と顔をしかめるので、「ええーっ、あれがいいんじゃないですか」と笑って反論したことがある。
私は泣かせのツボにはまるのをよしとしないひねくれ者ではあるが、『砂の器』のラスト約30分の壮大な叙事詩には素直にノレた。本浦千代吉を演じた加藤嘉が、息子の写真を見せられ、「知らん」とした後、嗚咽するシーン(顔演技)は忘れられない。
この『砂の器』は橋本忍が興した橋本プロで制作され、松竹で配給された。そうなった駆け引きがまた映画ビジネスの機微をうかがわせて面白い。
橋本は『砂の器』の映画化を、松竹、東宝、大映とどこにも断られ、最後の手段と橋本プロダクションを設立した(73年)。そのとたん東宝の藤本真澄プロデューサーから呼び出される。「そんなにやりたいんだったら東宝が金を出す。その代わり、東宝の仕事を二、三本やってほしい」。
橋本は合意した。しかしここで監督問題が持ち上がる。監督を志願していた同志の野村芳太郎は松竹の秘蔵っ子でありながら、橋本プロにも参画。砂の器を撮れなければ、松竹を辞すという覚悟だった。あわてた松竹が連絡してくる。「橋本プロと松竹の共同作品ということではいかがでしょう」
橋本の怒ること怒ること。冷酷な仕打ちで14年もお蔵入りさせておいて、いまさらそれはないだろう。断固拒否するつもりで松竹に向かっているとき、『砂の器』の父子の旅というテーマから、ふと野村芳太郎の父もまた松竹の監督であったことを思い出す(野村芳亭)。
橋本には、この映画は絶対当たるという確信があった。「失敗ということは全く考えていなかった」。しかし東宝と組んで父の野村芳亭さんが喜ぶだろうか。松竹でやれるのなら松竹でやってほしいと、きっと思うはず。
「野村(の立場)を不幸にして作品が成功しても本当の成功はありえない」。こうして橋本は怒気を引っ込め松竹の懐柔案に乗る。東宝に対しては、次の橋本プロの作品は東宝と作り、必ずヒットさせると約束して。
それが大ヒット作『八甲田山』だったのだから、東宝も儲けもの。〈借りを作り・借りを返す〉というビジネスモデルはまだ健在だったのだなあと少し遠い目になる。
客が呼べるエンターテインメントに終着駅はない
橋本は社会の上位の者を描かず、下位の者への眼差しが強かったため、共産党系の物書きと思われていた。しかし「その時代、時代によって、自分が面白いってものを書いてきたんだよ。だからある時には『真昼の暗黒』みたいな共産党が書いたようなものになるわけだし、それが『白い巨塔』になったら正反対の、権力を求める人間の話になるし」
「でも、本当に『面白い』と思えるところまで、なかなかいけない」「手前のところで止まってしまうんだ」「そこは」「どうしようもない」「それは越えられない」。
面白さは時代によって違う。客が呼べるエンターテインメントに終着駅はないということだろうか。
久々にじっくり読まされた評伝だった。正直言って、映画の面白さに目覚めたのはアメリカンニューシネマからで、ここに書かれている邦画の黄金期も、映画が娯楽の王様の座から滑り落ちていく過程も、ある種の世相史として知っているだけで、橋本忍に詳しかったわけではない。
それでもいきいきと面白く読めたのは、著者の春日さんが証言の違う事象をそれこそ“複眼”で検証しているからだった。映画史研究家の誠実な仕事ここにあり。著作でしか存じあげない方だけれど、春日さんありがとう!
※「ストーリー概要」は出版社公式サイトより抜粋。