戦後75年・蘇る満洲国(3)瀋陽で出会った「東京駅」 【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて 2020.8.18(火) 船尾 修 フォロー フォロー中 中国 シェア0 Tweet この写真の記事へ戻る インバウンドの中国人観光客が多数日本を訪れていた一時期、彼らの間で「東京駅の外観が瀋陽駅にそっくりだ」と話題になったことがある。それもそのはず、どちらも同じ時代に、同じ「辰野式」で建てられたからである。その辰野式という建築様式を完成させたのが辰野金吾。明治から大正にかけて日本が急速に西洋化していく過程で、辰野はヨーロッパの建築様式を貪欲に取り入れたと評されている。国内に残存する辰野の作品としては、日本銀行本店本館や大阪市中央公会堂などが有名である。 拡大画像表示 瀋陽駅を背にして正面に広い道路がまっすぐ伸びている。現在の「中華路」であるが、日本時代は「千代田通り」と呼ばれていた。その中華路の右側にあるのがかつての満鉄奉天共同事務所。現在では商店や飲食店などが入っている。中華路をはさんだ向かい側にも同時期の建物があり、こちらは満鉄奉天貸事務所。古地図を見ると、旅行会社JTBの前身であるジャパン・ツーリストビューローなどもこの建物にはいっていたことがわかる。 拡大画像表示 かつての奉天郵便局であった建物は現在も中国郵政の太原街郵政局として使用されている。設計は関東都督府土木課にいた松室重光で、竣工は1915年。辰野金吾の弟子筋にあたる。松室はその後、満洲建築協会の初代会長を務めた。この郵便局のように現代の中国になってからも同じ目的のために使用されている建物が少なくないことがおもしろい。 拡大画像表示 現在の中山広場。広場に面して、ずらりと当時の日本人が建てた建築物が並んでいる。かつての東洋拓殖奉天支店、奉天警務署、奉天三井ビル・・・等々。中国の急速な経済発展により一等地である瀋陽のこの中心地もすさまじいスピードで都市再開発が進んだが、これらの歴史的建造物の多くは文化財として保護されているため現在まで生き延びたといえる。 拡大画像表示 かつては奉天大広場と呼ばれた中山広場は夜になると活気づく。ラジカセに合わせてダンスをするグループなどが三々五々やってくるなど、市民の憩いの場になっているからである。日本時代の建物のいくつかはライトアップされている。写真の背後に写っているのは1929年(昭和4年)に建てられたかつての奉天ヤマトホテル。現在でも遼寧賓館の名でホテルとして使用されている。もちろん宿泊も見学も可能だ。 拡大画像表 関東都督府の組織であった奉天警察署は奉天ヤマトホテルの建造と同じ1929年(昭和4年)に建てられた。鉄道附属地における警察業務を担当していた。見るからに威圧感を与える外観だろうか、現在でも瀋陽市公安局として同じ用途で使用されている。入り口には「各尽職守 服務人民」(しっかり職務をまっとうし、市民のために仕事をしよう)」と大きな標語が表記されている。 拡大画像表示 現在は瀋陽市総工会として使用されているこの建物は1922年(大正11年)に東洋拓殖奉天支店として建てられた。東洋拓殖株式会社とは1908年(明治41年)に設立された国策会社で、植民地の開発事業を行った。満鉄と並ぶ二大国策会社と言われている。最盛期には海外に52の支社が置かれ、「東拓」と呼ばれた。 拡大画像表示 現在は中国工商銀行中山広場支行として使われているこの建物は1925年(大正14年)に横浜正金銀行奉天支店として竣工されたもの。「横浜」という名称から当時の地方銀行かという印象を受けるが、実際は国の特殊銀行として貿易金融や外国為替に特化した銀行であった。「正金」とは当時の言葉で現金という意味。通称、「正金」「YSB」と呼ばれた。戦後解体され、新たに設立された東京銀行(現在の三菱UFJ銀行)に引き継がれた。 拡大画像表 瀋陽駅を背にしてまっすぐ伸びる中華路を行くと、南京南街の広い道路に出る。そこを右折すると中山公園に至るが、ここはかつて千代田公園と呼ばれていた。その一角に満鉄が1929年(昭和4年)に建てた奉天給水塔が残されている。鉄道附属地における上下水道は満鉄が管理していた。この公園にはかつて日露戦争時における「奉天会戦」でなくなった3万5000人の英霊を祀る忠魂碑が立っていたが、戦後すぐ取り壊された。 拡大画像表示 満鉄の経営は実に多岐にわたっていた。病院や大学もそのひとつである。1911年(明治44年)に奉天に南満医学堂を設立、その後1922年(大正11年)には満洲医科大学となった。満洲の地においては最も古い大学のひとつである。写真にあるのは付属の講堂で1935年(昭和10年)につくられたもの。戦後、中国共産党政府が成立してからは中国医科大学に名称が変わり、この講堂は現在その付属第一病院内に現存している。 拡大画像表