皇子誕生ならず
翌万寿4年(1027)には、道長が死去した。
威子は再び懐妊するも、皇子誕生とはならず、長元2年(1029)2月2日に生まれたのは馨子内親王だった。
後一条天皇は威子以外に、后や女御を迎えていない。
ただ一人の后である威子が皇子を産めずに苦悩する中、威子の兄たちの娘が入内するとの噂が相次いだ。
『栄花物語』巻第三十一「殿上の花見」によれば、すでに30歳を過ぎていた威子は、「若く、咲き出す花のような方々と争うことはすまい」と深く思っていたが、後一条天皇は、「あなたをこれまでよりも、大切に思い申し上げるつもりです」と言ったという。
けっきょく、威子の兄たちの娘が入内することはなかった。
威子を大切に思う後一条天皇が拒んだと推測されている (服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』所収 伴瀬明美「第九章 三女威子と四女嬉子 ●それでも望月は輝き続ける」)。
大中宮・威子
長元9年(1036)3月頃から、後一条天皇は病に冒された。
『栄花物語』巻三十二「謌合」には、「水ばかり飲み、面やつれした」とあり、飲水病(糖尿病)に罹っていたとされる(服藤早苗『人物叢書 藤原彰子』)。
治療や祈祷が行なわれたが、その甲斐もなく、同年4月17日に、在位のまま、29歳で崩御した。
威子の悲しみは深く、食欲も落ち、流行していた裳瘡に罹ってしまう。
威子は同年9月4日に出家し、二日後に、38歳でこの世を去った。
後一条の崩御から半年も経っておらず、まるで後を追ったかのようである。
後一条のいないこの世に、未練はなかったのかもしれない。
『扶桑略記』同年9月6日条によれば、後一条の唯一の后であった威子を、世間では「大中宮」と称したという。