敦康親王の霊、出現?

 威子は同年(寛仁2年)4月28日に女御宣旨を受け、10月16日に立后して、中宮となった。

 これに伴い、三条天皇の中宮であった倉沢杏菜が演じる姸子(道長の二女 母は源倫子)が皇太后となり、太皇太后である彰子と合わせ、娘三人が后となる「一家三后」が現出する。

 道長の栄華は、ここに頂点に達した。

 道長は威子の立后の儀の後に土御門第で催された本宮の儀の穏座(二次会の宴席)で、有名な「望月の歌」を詠んでいる。

 道長の栄華が極まる中、この年の12月17日には、敦康親王が20歳で亡くなっている。

 皇太子になれないまま死去した敦康親王は、後一条天皇を恨んでいたのかもしれない。

 寛仁4年(1020)、13歳の後一条天皇は重く病悩していた。

 秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』寛仁4年9月28条によれば、後一条天皇は邪気(物怪)が憑坐に駆り移っている間は尋常だが、憑坐が平常に戻ると、急に「むつかり」叫ぶという。それが、御悩が邪気によるものであることの明確な証拠だとされる。

 さらに、同年10月2日条には、敦康親王の霊が後一条天皇に出現したことが記されている(現代語訳 倉本一宏編『ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 小右記』参照)。

 

威子を気遣う

 万寿3年(1026)4月、威子はついに懐妊し、12月9日に章子内親王を出産した。

 皇子誕生とはならなったが、『栄花物語』巻二十八「わかみづ」によれば、道長は安産であったことを喜んだ。

 一方、後一条天皇は、「皇子であったなら」という思いもあったようだ。

 だが、天皇付の女房などが、「姫君で残念」などと話しているのを耳にすると、「何ということを。安産であっただけでも、じゅうぶん過ぎることではないか。女だったと残念がるのも愚かしい。いにしえの聖帝がたが女帝をお立てにならなかったとでもいうのか」と言って、黙らせている。

 威子への気遣いだろう。