道長の病を喜んだ?
長和元年(1012)2月14日、道長の二女・倉沢杏菜が演じる姸子が三条天皇の中宮となると、道綱は中宮大夫に任命された。
一方、道長は病に苦しんでおり、『小右記』同年6月20日条には、道長の病を喜ぶ公卿が五人いるという風説が流れていることが記されている。
その五人とは道綱、実資、隆家、藤原懐平、藤原通任だという。
ドラマと同じように、道綱もこの噂に肝を冷やしたかもしれない。
しかし、『小右記』同年6月29日条には、道長が、「道綱、実資、懐平、通任に関しては噂を信じていないが、隆家だけは信じている」ということが、また同年7月21日条には、「道綱と実資は自分(道長)の病を喜ぶ者ではない」と称したことが記されている。
道綱も安心したのではないだろうか。
道長とともに三条天皇に退位を迫った?
長和3年(1014)2月9日、内裏が焼亡した。
同年3月12日には、大宿直、内蔵寮不動倉などが焼亡し、宝物も焼失してしまう。
『小右記』同年3月14日条によれば、この火災の後に道長と道綱が連れ立って、「天が主上(三条天皇)を責め奉ったのだ」と、三条天皇に奏上したという。
三条天皇は病脳により、目と耳が不自由な状態となっていた。
道長と道綱は、三条天皇に退位するよう仄めかしたと思われる。
三条天皇は皇太子時代から頼りにしていた道綱が、道長とともに責めてきたことにショックを受けたであろう。
また、道長もそのために、道綱を伴ったのではないかと考えられている(以上、倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。
実資は、道長はともかく、なぜ道綱が同心するのか。愚なり、愚なりと日記に綴っている。
三条天皇は長和5年(1016)正月に譲位した。道長の外孫・敦成親王(一条天皇と見上愛が演じる彰子の皇子)が践祚し、後一条天皇となった。