大弐三位の由来は?

 天喜2年(1054)、夫の高階成章が、受領としては最高の大宰大弐に任じられると、賢子は夫の役職にちなみ、「大弐三位(だいにのさんみ)」と称されるようになった。

 賢子も夫・成章の任地である大宰府に、少なくとも二度は赴いたとみられているが(角田文衞『紫式部伝――その生涯と『源氏物語』――』)、成章は天喜6年(1058)正月に、大宰府にて、69歳で亡くなっている。賢子、60歳ぐらいの時のことである。

 夫亡き後も、賢子は20年以上、健在であったと考えられている。

 賢子の正確な没年は不明だが、永保2年(1082)に、84歳くらいで、亡くなったともいわれる。

 これが正しければ、当時としては大変な長寿であり、充実した人生であったのはないだろうか。

 ドラマではまだ生まれたばかりの賢子だが、この先、長い人生が待っている。