のちの後冷泉天皇の御乳母の一人に

 賢子は、万寿2年(1025)8月に誕生した、東宮(皇太子)敦良親王(父は一条天皇、母は彰子/のちの後朱雀天皇)の皇子・親仁親王(のちの後冷泉天皇)の御乳母の一人に選ばれた。賢子、27歳ぐらいの時のことである。

 歴史物語『栄花物語』巻第二十六「楚王のゆめ」では、この時の賢子を、「左衛門督の御子を産んだ者」と称している。

「左衛門督」とは、通説では、万寿2年当時に左衛門督であった、玉置玲央が演じた藤原道兼の二男・藤原兼隆と解釈され、賢子は兼隆の娘を産んだという(上原作和『紫式部伝――平安王朝百年を見つめた生涯』)。

 だが、左衛門督は「左兵衛督」の誤りで、賢子の相手は左兵衛督であった、金田哲が演じる藤原斉信の養子・藤原公信だったとみる説もある(萩谷朴『紫式部日記全注釈 上巻』)。

 賢子の相手は兼隆だったのか、それとも、公信だったのだろうか。

 

キャリアを極める

 賢子は乳母として親仁親王の養育にあたり、「越後の弁の乳母」、「弁の乳母」などと称された。

 親仁親王が13歳で立太子した長暦元年(1037)頃には、東宮権大進の高階成章と結婚。

 翌長暦2年(1038)には、為家という男子を出産している(山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』)。賢子は40歳くらいになっていた。

 寛徳2年(1045)、親仁親王が父・後朱雀天皇から譲位を受け、後冷泉天皇となると、賢子は典侍に任ぜられ、従三位に叙せられた。

 これは中下貴族層の娘としては、キャリアの頂点に達したことになるという(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち――家族、主・同僚、ライバル』所収 栗山圭子「第十三章 天皇乳母としての大弐三位――母を超えた娘」)。

『栄花物語』巻第三十六「根あはせ」では、後冷泉天皇を、「ご気性は大変にご立派で、物腰柔らかでお優しい。人を嫌って遠ざけることもなく、申し分がない。折あるごとに管弦の御遊を催され、月の夜、花の折を見過すこともない。素晴らしいご治世である」と褒め称えたうえで、それは「風流心を持つ弁の乳母(賢子)が、このようなに養育したのであろうか」と結んでいる。

 賢子はよき乳母であったのだろう。