「私が止まっていたらだめだ」
「そのナンバーはもともと大輔さんから構想をいただいて始めたのですが、実際にやってみるとうまくいくところとうまくいかないところがあって、大輔さん、私、哉中ちゃん、アシスタントの渡邉春菜でいろいろアイデアを出し合って、フラットな関係性でつくりました。福岡に入ってからも椅子の位置を変えたり、三宅咲綺ちゃんがこういうことしたらとか、(木科)雄登くんがこうしたら面白いんじゃないのといろいろです。私のキャリアの中からできたクリエイションの時間かなと思いました」
実はアクシデントもあった。当初予定していた中から体調不良で出演できないスケーターたちがいた。公開リハーサルを終えて翌日、開幕直前の朝には島田高志郎が出られなくなった。
「高志郎くんは早い段階からリハーサルに参加してくれていたし、ナンバーもどうやったらその表現に到達できるのか一生懸命やっていました。正直、私も大輔さんも、もう初日の朝でしたので出演できないと聞いたときはすごい衝撃でした。大輔さんがいちばんショックを受けていましたし、カンパニー内でもすごく落ち込んでいたり泣いている子がいました」
そのとき「私が止まっていたらだめだ」と思った。
「ここであきらめないで前向きにしていかないといけないと、彼がいないバージョンでの代替案をとっさに考えました。高志郎くんのナンバーを抜いてどうやってつなぐか、キャストだけではなくスタッフさんと照明や音の変更も含め、アイデアをみんなで振り絞りました。やがて新しい案を考えていくのもクリエイティブで楽しいよね、ってアドレナリンが出てみんな取り組んでいました」
そこにもキャリアがいかされていた。
「劇団四季や商業演劇をやってきた中でもあった経験だったんですね。突然の体調不良や怪我とか事故で出られないという事態はあって、開幕2時間前、1時間前に『じゃあこうして』ということをやってきたので、それを思い出しました」
1人1人にストーリーがある
数々のキャリアを重ねてきた鈴木は2010年、「東京パノラマシアター」を立ち上げた。
「ミュージカルは恋愛や家族愛をテーマにする作品が多いと思うんですけれど、もうちょっと私たちが個人的に苦しんでいること、社会的な問題に踏み込んでみようと思いました。結構商業だと集まってから1カ月くらいのスパンで終わるんですけれど、もっとテーマをみんながライフワークとして共有して考えて自分ごととして作る時間がほしいなと思ったので、商業演劇のキャリアと並行して立ち上げました」
パノラマシアターという名前は、「俳優、ダンサーの全員が同じ対等な立場で舞台上で存在し、心を、世界を可視化する、というところから来ています。それを実現する場所をつくりました」。
そして続ける。
「私は俳優としてもダンサーとしても、けっこう下積みが長かったんですね。だから思うんですけれど、メインのキャストの方にもちろんストーリーがあるけれどアンサンブルと呼ばれているメンバーにもちゃんと一人一人ストーリーがあるんですよね」
ふと窓の外に目を向けた。
「例えば、あそこの公園で今、親子が楽しそうに遊んでいるじゃないですか。あっちの椅子に座っているサラリーマンはちょっと悲しい顔してる。疲れてるのかな。たぶん事情がそれぞれにあるじゃないですか。この情景がすごくリアルで、この世界が美しいって私は思うんですね。主役がいて、脇役がそのために存在する、商業演劇はそういうつくりですし、それも素敵だと思います。でも私たちの世界をリアルに切り取って舞台上にのせる、脇役でもちゃんと1人の主人公として生きている、誰もが自分の人生の主人公として動いているという思いが私にとって作品を作る上で大切なんですね。みんな自分が主人公だと思って生きている方がリアルな舞台なんじゃないかなっていつも思っています」
「滑走屋」は多くのスケーターが参加した。その中にメインスケーター、アンサンブルスケータ―というカテゴリーもあった。でも区別なく誰もが等しく輝いてみえたのは、鈴木の抱いてきた思いがあってこそではなかったか。
「ほんとうにこの20年くらいの自分のキャリアはこのためにあったんだって思うくらい、自分のいろいろな引き出しを全部投入した感じがします」