バルカン半島の国ボスニア・ヘルツェゴビナの南部の古都モスタル。ユーゴ紛争によって破壊された街が再生し、多民族・多文化の共生や平和の象徴となっていることから2005年、ボスニア・ヘルツェゴビナ初の世界遺産(文化遺産)に登録されました。歴史上、支配者が次々に変わったことにより、街にはさまざまな文化が入り交じっているモスタルを散策してみましょう​。

取材・文=杉江真理子 取材協力=春燈社

ネレトヴァ川の渓谷沿いの古都モスタル 写真=フォトライブラリー

モスタルの歴史と街の破壊

 ネレトヴァ川の渓谷沿いにある古都モスタルは、ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県の中心都市で、現在国内4位の大都市です。

 歴史上、ローマ帝国支配下ではダルマチア属州に含まれていて、中世まではキリスト教地域でした。1468年にオスマン帝国の支配下に入り、イスラム教地域となります。15~16世紀にはオスマン帝国の国境の町として栄え、その後ハプスブルク家の帝国であったオーストリア・ハンガリー帝国時代(1867年〜1918年)にも発展します。そのためオスマン帝国衰退後は主にキリスト教とイスラム教が共生し、独自の文化が建築などにも表れている美しい町となりました。

 旧国名であるユーゴスラビア(連邦共和国)時代には、ボシュニャク人(ムスリム)、セルビア人(正教徒)、クロアチア人(カトリック教徒)が共生する多民族国家でした。しかし1991年、クロアチアやスロベニアが相次いで独立宣言して、クロアチアでは独立紛争が始まります。しだいにボスニア・ヘルツェゴビナでも各民族間での独立・分離の動きが活発となり、内戦状態となっていきました。

 第二次世界大戦後、ヨーロッパ最悪の紛争となったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は1992年4月から1995年12月までの3年半にわたって続き、死者20万人・難民200万人を出す結果となりました。

 NATO(北大西洋条約機構)軍の介入を経て1995年に戦闘停止となり、和平条約であるデイトン合意に達しました。現在はボシュニャク人とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国の2国で「ボスニア・ヘルツェゴビナ」が構成されています。

 モスタルもこの紛争によって、街の象徴であった「古橋(スタリ・モスト)」はじめトルコ風の古い町並みのほとんどが破壊されてしまいます。古橋は近年再建され、旧市街もユネスコが設立した国際委員会の協力で修復・再建されたことから、2005年、モスタル旧市街の古橋地区は世界遺産(文化遺産)に登録されました。整備された地区を少し外れると、今もなお銃弾の痕も生々しい建物がたくさんあり、当時の内紛の激しさが感じられます。

銃弾の跡が残るモスタルの廃屋 写真=フォトライブラリー

 またこの紛争では、モスタル市のバス会社の被害も甚大で、バスの多くが戦闘中に破壊・略奪に遭いました。無事だったバスも交換部品の調達ができず稼動できなくなったことから、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、「モスタル市公共輸送力復旧計画」を策定し、日本政府にバスの購入に必要な資金の協力を要請しました。

 このことから無償資金協力が実施され、モスタル市および周辺町村市民約23万人の交通手段の改善や、市民の社会・経済活動が活発化に役立ったことは、政府や市民から高い評価を受けています。

 街には側面に日の丸と「日本の方々からです」と書かれている黄色い市バスが走っています。私が滞在中も日本人だと気づいたのか、バス車中の男性ふたりが立ち上がって、手を振ってくれたことがありました。モスタルを訪れた際には、ぜひ,日本の対ボスニア・ヘルツェゴビナ経済協力の象徴となっている「黄色いバス」にも注目してみてください。

側面に日の丸と「日本の方々からです」と書かれている黄色い市バス 写真提供:JICA