正妻・倫子との差

『大鏡』には、「この殿(道長)には、北の方がお二人いらっしゃいます」と記されているが、道長が同居し、毎日のように行動をともにした倫子が正妻であり、明子は次妻、もしくは妾妻であったという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』 東海林亜矢子 第五章「道長が愛した女性たち ◎次妻源明子、ツマ藤原儼子・藤原穠子・源重光娘」)。

 秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』長和元年(1012)6月29日条では、明子に「高松左府妾妻」との注を入れており、当時の貴族たちからも、明子と倫子は同格とはみなされていなかった(梅村恵子『家族の古代史 恋愛・結婚・子育て』)。

 明子は、倫子と同じく、道長の子を6人産んでいる(明子は四男二女、倫子は二男四女)。

 だが、明子の子どもは倫子の子どもに比べ、昇進や結婚相手などにおいて、明確な差がつけられていた。

 

85歳まで生き抜いた

 明子は寛仁3年(1019)、55歳のときに、倫子より早く出家している。これは道長の病気治癒を願ってのことだという(梅村恵子『家族の古代史 恋愛・結婚・子育て』)。

 道長は万寿4年(1027)に62歳で死去するが、明子はその後も生き続け、永承4年(1049)7月22日、85歳で亡くなった。

 90歳で亡くなった倫子には僅かに及ばないものの、当時としてはかなりの長命であった。

 道長が公的な場所に伴うのは倫子だけであり(梅村恵子『家族の古代史 恋愛・結婚・子育て』)、道長の日記『御堂関白記』に、倫子は300回以上も登場するのに対し、明子の登場は36回しかないという(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

 その『御堂関白記』寛弘6年(1009)7月19日条には、病気の明子を見舞ったと記されており、道長が明子に寄り添うこともあったようだ。

 道長との結婚生活が、幸せなものだったと信じたい。