道長の姉・詮子に引き取られる

 明子の母・愛宮も、安和の変の後、出家しており(藤原道綱の母『蜻蛉日記』)、明子は叔父の盛明親王(高明の同母弟)養女に迎えられた。

 歴史物語『栄花物語』巻第一「月の宴」によれば、明子は姫宮として大切に育てられたという。

『天祚禮祀職掌録』(『群書類従 新校 第二巻』所収)には、「右、明子女王 前上総太守、盛明親王女」という記述があり、皇籍に正式に編入され、本名は「明子女王」に変わったと考えられている(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち―〈望月の世〉を読み直す』 東海林亜矢子 第五章「道長が愛した女性たち ◎次妻源明子、ツマ藤原儼子・藤原穠子・源重光娘」)。

 盛明親王が寛和2年(986)5月に薨じた後、明子は道長の姉・吉田羊が演じる詮子に引き取られた。

 

道隆も道兼も明子に懸想していた?

 歴史物語『大鏡』第五 大臣列伝「太政大臣道長」には、東三条第の屋敷の東の対を区切り、女房、侍、家司、下人まで別にあてがって、詮子が明子を大切に世話したことが記されている。

『栄花物語』巻第三「さまざまのよろこび」によれば、どの殿方も明子を我が妻にしたいと思っていたが、その中でも井浦新が演じる藤原道隆はうるさいくらいに明子に懸想していたという。

『大鏡』にも、詮子の兄弟の若君たち(道長や、藤原道隆、玉置玲央が演じる藤原道兼など)が、「我も、我も」と明子に付け文などを送ったとある。詮子は彼らを上手に嗜めたが、道長だけを許し、道長は明子のもとに通うようになったという。

 明子と道長の結婚の時期は、道長が正妻の源倫子と結婚した永延元年(987)より少し後だとされる(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)が、明子のほうが先に道長と結婚したとする説もある。

 明子は結婚後、亡父の源高明から伝領した高松殿に住み、「高松殿」と称されるようになった。