定子と「長徳の変」

 道隆が没すると、4月27日、道隆の弟・玉置玲央が演じる藤原道兼が関白となった。

 その道兼も疫病が大流行するなか、関白就任から間もない5月8日に没してしまうと、定子の叔父・藤原道長が、「内覧」に任じられ、政権の中心に躍り出た。これは、道長の姉で一条天皇の母・藤原詮子の意向だったとされる。

 長徳2年(996)正月には、伊周と本郷奏多が演じた先帝・花山院がトラブルになり、弟の隆家に命じて、花山院に射かけたことにはじまる「長徳の変」が勃発した(樋口健太郎 栗山圭子編著『平安時代 天皇列伝』 高松百香「一条天皇——外戚の後宮政策に翻弄された優等生」)。

 この事件後、定子は内裏を出て、「二条北宮」と称される、定子が里邸としていた邸宅に退出した。兄と弟が不祥事を起こしたことによる、自主的な謹慎であったという(繁田信一『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』)。

 事件を重くみた一条天皇は、伊周を太宰権帥、隆家を出雲権守として左遷し、事実上の流罪とすることと決めた。

 伊周と隆家は二条北宮の定子のもとに身を寄せていたため、一条天皇は、同年5月1日、懐妊中であった定子を牛車に移したうえで、検非違使を二条北宮に突入させた。

 隆家は捕らえられ、伊周もいったんは逃げたものの、やがて捕まり、二人とも左遷された。

 このとき、『栄花物語』巻第五「浦々の別」には、定子が自ら髪を切り落としたとあり、『小右記』長徳2年5月2日条にも、定子が出家したことが記されている。

 だが、錯乱のあまり髪を切ってしまっただけで、真の出家はしていなかったのではないか、とみる説もある(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』 伴瀬明美「第八章 藤原定子・清少納言——一条天皇の忘れ得ぬ人々」)。