漱石が追い求めたもの

 漱石が人間として、そして文学者として追い求めたものは何だったのでしょうか? それは「自由」だと私は思います。

 生まれながらにして不自由な生活を送り、留学先でも苦労を強いられ、精神を病み、始終胃痛に苛まれながら、雲のような自由を望んだと思うのです。猫は雲のように自由です。どこでもすり抜けていきます。雲のような猫は、漱石の理想だったのかもしれません。

 自由を掴もうとして盗作し、それがきっかけで人生が拓けたことは、『曾我物語』にある「夢売り」の話を思い起こさせます。

 北条政子の腹違いの妹・時子がある夜、険しい峰に登り、日月を袖にして、手に橘を持っているというものでした。時子からこの話を聞いた政子は吉夢と知りながら凶夢と偽り、災いを避けるために自分がその夢を買ってあげる言って、唐鏡と衣を差し出します。その夜、政子は白鳩が金函をくわえて来る夢を見ます。そして朝になると、頼朝から初めての恋文が届けられていた、というものです。それからほどなくして、源頼朝と政子は結婚、政子は将軍の妻となり、頼家と実朝という2人の将軍も産んで大出世、尼将軍として幕府を指揮するまでのなります。

 他人の夢でのし上がった北条政子、他人の小説で、のし上がった漱石。果たして漱石の人生にとってそれはよかったのでしょうか。ようやく掴んだ作家人生は締め切りに追われ、胃痛と神経衰弱に苦しみ、浪費家の妻とは不仲になります。

『吾輩は猫である』では、猫は人間が飲み残したビールを舐めて酔い、水瓶に落ちてしまいますが、そこから出ようという抵抗をやめて「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る」と言って、自ら死を選ぶところで終わります。

 東京朝日新聞に入社して9年後の大正5年(1916)、漱石は長年患っていた胃潰瘍が悪化し、49歳で亡くなります。漱石の作家人生は、わずか10年でしたが、力のかぎりを執筆に注ぎ込んだことは真実です。

雑司ヶ谷霊園の夏目漱石の墓 写真=GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート

 余談ですが、新聞社に入って夏目家が豊かになったのは、妻・鏡子が漱石の印税で買った株で儲けていたからでした。漱石が亡くなった年は第一次世界大戦が勃発して好景気だったので、夫人は定期預金にしてあった遺産の3万円を解約して、すべて株に投資します。ところがその4年後、1920年に起こった戦後恐慌で大打撃を受け、ようやく手に入れた早稲田の家も、売らなければならないほど困窮します。このことを漱石は知らずにすんで、よかったのかもしれません。