経済的に安定した漱石の胃を痛くしたもの

 明治40年(1907)3月、漱石は大学を辞職し、翌月から新聞社に入所します。

 その年の6月から『虞美人草』の連載を始め、『坑夫』『夢十夜』『三四郎』と、次々に作品を発表して行きました。

 そんななか、文芸雑誌『文章世界』で神谷鶴伴という作家との対談の際、少し不可解なことがありました。

 明治41年(1908)9月14日に行われたこの対談は、2年前に行われた対談の第2回でした。文筆家として世に出るきっかけとなった『吾輩は猫である』について、それぞれの回で漱石は語っています。

 第2回では執筆に至った経緯について「ロンドンから日本に帰ってきた時、編集者の(高浜)虚子から何か書いてくれないかと頼まれて書いた。ところが虚子がこれはいけませんと言った。その理由は忘れてしまったが、もっともだと思って書き直した。これは大いに褒められ、1回だけのつもりだったのが、続きを書けというので、だんだん書いているうちに長くなってしまった」という内容のことを語っています。

 さらに「私はただ、偶然書いたというだけで、文壇に対してどうこうという考えもなかった。ただ書きたいから書き、作りたいだけ作ったまでで、つまりいえば、私がああいう時機に達していたのである。もっとも書き始めた時と、終わる時分とはよほど考えが違っていた」とも言い、最後は「文体なども人を真似るのが嫌だったから、あんなふうにやってみたに過ぎない」と締め括っています。

 しかし、『吾輩は猫である』は、はっきり言って盗作です。そのやましさが、漱石の胃を痛くし続けたのではないでしょうか。

 対談の前日、モデルとなった夏目家の猫が死亡して、漱石は死亡通知を親しい人に送っているにもかかわらず、対談では全くそのことに触れていないことも不自然に思えるのでした。