次妻・源明子は醍醐天皇の孫

 倫子との結婚は道長の運命を切り開くことになるが、道長にはもう一人、瀧内公美が演じる源明子という次妻がいた。

 明子は醍醐天皇の孫で、左大臣源高明(914~983)の娘である。

 幼少期に、父・高明が安和2年(969)の「安和の変」により失脚したため、叔父の盛明親王(928~986)に養育された。

 盛明親王の没後は、道長の同母姉・藤原詮子に迎えられ、愛育されたという。

 明子は、四男二女の子を産んだ。

 

道長、政権の中心に躍り出る

 道長の父・藤原兼家は、正暦元年(990)5月、道長の長兄・藤原道隆に関白の座を譲り、同年7月2日に62歳で死去した。

 その道隆も、「長徳の大疫癘」と呼ばれる疫病が大流行するなか、長徳元年(995)4月10日に死去し、道隆に代わって関白に就任した道長の次兄・藤原道兼も同年5月8日に、この世を去ってしまう。

 疫病は、猛威を振った。道長は正暦2年(991)9月に権大納言となっていたが、道長よりも上位にあった朝廷の人物は、三浦翔平演じる藤原伊周(974~1010)を除いて、ほぼ全員が命を落とした。

 伊周は道長の長兄・藤原道隆の嫡男で、道長の甥である。

 一条天皇が政権を託したのは道長だった。

 5月12日、道長に「内覧」の宣旨が下された。

 内覧とは、天皇に奏上する文書や、天皇から宣下される文書を先立って内見する役目のことで、関白に准じるとされる。

 関白ではなく、内覧だったのは、大臣ではなかったためだと考えられている。

 道長が内覧に任じられたのは、道長の同母姉で、一条天皇の生母である藤原詮子が、道長を強く推したからだという。『大鏡』(文徳天皇の代から後一条天皇の代(850~1025)のまでことを描いた、紀伝体の歴史物語)には、このとき詮子が一条天皇の寝所にまで押しかけ、涙とともに説得したとの説話が記されている。

 こうして道長は政権を射止め、同年6月19日に右大臣に任じられた。

 道長の栄光の日々が、幕を開けた。