【本多正信】二男は加賀本多家の初代に

本多正信の子どもたち

 本多正信は、家康の死去から二ヶ月後の元和2(1616)年6月に、この世を去った。享年は79だった。

 正信には、三男二女の子がいたとされる。

 娘の一人は三浦重政の室に、もう一人は小栗但馬の室になったという(「本多一族系図」 安城市歴史博物館『特別展 安城ゆかりの大名 家康の名参謀 本多正信』)。

 長男は、井上祐貴が演じた本多正純である。

 少年のころから家康に仕え、重用された。

 家康の死後は、徳川秀忠の年寄(のちの老中)の一人に加わった。

 元和5年(1619)には、加増されて下野の宇都宮城(栃木県宇都宮市)を賜わり、十五万五千石の大名となっている。これは家康の遺言によるものだったという。

 ところが、秀忠との関係は、良好ではなかったといわれる。

 

長男・本多正純の失脚

 元和8年(1622)9月、正純は改易となった出羽の最上義俊の山形城接収の上使として、山形に派遣された。

 その任の最中に、正純は「将軍家への御奉公よろしからずによって」、下野国宇都宮の領地没収と出羽国由利(秋田県由利本荘市)五万五千石への減転封が命じられた。

 だが、正純はこれを固辞。その結果、佐竹義宣預かりとなり、嫡男の本多正勝とともに、横手(秋田県横手市)に幽閉された。

 正純・正勝父子はこの横手の地において、正勝は寛永7年(1630)5月に35歳で、正純は寛永14年(1637)3月に73歳で、それぞれ死去した。

 正勝の子・本多正之は、寛文4年(1664)に赦免され、旗本に列している。

 

●二男・本多政重は、加賀本多家の初代に

 二男の本多政重は、劇的な変化に富んだ人生を送っている。

『寛政重修諸家譜』によれば、政重は天正19年(1591)、12歳のときに倉橋長右衛門某の養子となった。

 その後、家康と秀忠に出仕したが、慶長2年(1597)8月に秀忠の乳母の子・岡部庄八を討ち果たして、伊勢国に出奔したという。

 その後、忍成修吾が演じた大谷吉継、栁俊太郎が演じた宇喜多秀家に仕え、関ケ原の合戦後は、深水元基が演じた福島正則に仕えている。

 慶長7年(1602)には、加賀の前田利長(宅麻伸が演じた前田利家の子)に仕え、三万石を与えられる。

 慶長9年(1604)には、TAKAHIROが演じた直江兼続(津田寛治が演じた上杉景勝の重臣)の娘婿として養子となったが、慶長16年(1611)には、招かれて再び加賀藩前田家に三万石で出仕し、のちに五万石に加増された。

 家老として前田家を支え、加賀本多家の初代となった。

 

●三男・本多忠純は、家臣に暗殺された?

 三男の本多忠純は家康に仕え、慶長10年(1605)、下野国榎本(栃木市)に一万石を賜わった。

 大坂夏の陣で挙げた武功により、下野国皆川(栃木市)に一万八千石を加増され、合計で二万八千石を領した。

 忠純は短気で、少しの過失でも、家臣を手討ちにしたという。

 忠純は寛永8年(1640)に46歳で死去しているが、これは過失を犯し、忠純に手討ちにされるのを恐れた家臣による暗殺だともいわれる(栃木市史編さん委員会編『栃木市史 通史編』)。

 寛永9年(1641)、忠純の遺領は、養子に迎えた甥の本多政逐(忠純の兄・本多政重の子)が継いだが、本多政逐の嫡子・犬千代が5歳で夭逝したため、無嗣廃絶となった(『寛政重修諸家譜』)。