キュートな女子高生幽霊のクライムストーリー
本書の中からもう一編と言われたら、私は「憐光」を推したい。『ツミデミック』のタイトルにふさわしいクライムストーリーではあるのだけれど、唯(ゆい)という名の女子高生幽霊がキュートなのだ。
母校にゆらりと立ち現れた唯は、周りの女子高生達の会話から「そうだ、あたし、死んでた」と思い出す。15年前の集中豪雨で死に、遺体は見つからないままだったけれど、一人の現役女子高生の願掛けで骨が発見された。
唯自身は自分がいつどこで、どうやって死んでしまたのかは憶えていない。それでも自分の内部を探ってほっとする。「どろどろした怒りや憎しみが自分の中に見当たらない」。強烈な負の感情があって、成仏できてないワケじゃなさそうだ。
他者には見えない浮遊体のような唯は、世間のマスク率の高さに目を丸くし、二つ折りのケータイが指で操作できることに見とれ、親友の「登島つばさ」と、高2のときの担任で当時20代の終わりだった「杉田先生」が待ち合せをしている場面に遭遇。自分の白骨化した遺体発見を機に、二人がお悔やみに向かう車に同乗し、実家への帰還も果たす。
つばさと先生が往路の車中で交わす会話で、唯は知る。世界史の教師だった杉田先生は休職して海外放浪、今は教職を離れ知り合いの会社で働いている。秀才だったつばさは ぬるま湯のようなこの田舎を出て東京へ出て、美しい女性に成長していた。
実家ではママが単身赴任中のパパとの電話で「あの子に盗まれたお金」と言うのが聞こえて唯をギョッとさせる。「そんなことしてない」と思うものの、ぼんやりしていた記憶が鮮明になるにつれ、かえって分からないことが増えていくのが怖い。
唯の実家をそそくさと辞去したつばさと先生は復路の車中で、往路とはうってかわった攻撃的な会話を始める。つばさの挫折続きの人生は、コロナ禍でさらに痛めつけられていた。
この「憐光」は、通常の幽霊譚をことごとく裏切っていくところに、著者の意図があるように思う。第一点がこの世に恨みをのこしているわけでもないのに幽霊になること。第二点は、通常生者を怖がらせる幽霊自身が、生者が次々ともたらす情報に怯えていること。
第三点は、物語のクライマックスでのシーン。唯が「濡れ衣だよ」「あたしを悪霊にしないでよ」と叫ぶところなどは、悪霊になってこそまっとうできる幽霊譚の完全なちゃぶ台返しだろう。
タイトルの漢字にご注目を。燐光ではなく造語の「憐光」、憐れみの光である。私はキリスト教徒ではないので単なるイメージだが、高みから見下ろす同情の憐れみではなく、共に苦しむという「共苦」が根っこにある憐れみ深い感情、ピエタ(伊語)とかピティエ(仏語)にニュアンスが近い気がする。
恨みや怨念や因果応報などとは無縁の浮遊体はどこへ向かうのか。臨死や死は“物語”を必要とする。物語のない吹きっさらしの荒野の寂しさに、私達は耐えられない。しかしここでも著者はトンネルの向こうに見える光や、お花畑、懐かしい人々の顔の走馬燈といった概念をあっさり放棄して、非生命体の向かう所を指し示して見せる。
「幽霊道」という言葉が脳内に点滅する。茶道、華道、武士道。道と付けば独りで極めるものと決まっている孤独な道だ。唯の最後のセリフが、これまたとてつもなくキュートで、思わず唯の背中に「いってらっしゃ~い」と、声をかけたのだった。