美術史上も独自の世界を構築

 ネーデルランド絵画の第1世代は前回紹介したヤン・ファン・エイクに加え、ロベルト・カンピン、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンがその代表です。第2世代にはハンス・メムリンク、ペトルス・クリストゥス、ヒュゴー・ファン・デル・グースらが上げられます。

 その後はロマニストと呼ばれるイタリアの主にローマに留学し、盛期ルネサンスやマニエリスムの影響を受けたホッサールト、ファン・スコレルなどに加え、ピーテル・ブリューゲルが続き、第3世代と呼ばれます。

 ボスは第2世代と第3世代の中間ぐらいの画家ですが、現実を徹底的に描写する第1、第2世代とはまったく異なる、奇想を使いながら、人類の罪と罰を浮き彫りにしていった前例のない画家でした。ボスの系譜はピーテル・ブリューゲルにつながります。ブリューゲルはボスの後に取り上げます。

 ボスはなぜ、ユーモラスではあっても暗い罪や罰という悲観的な主題を扱ったのでしょう。その理由には時代背景が大きく影響しています。

 ボスが生まれた頃、1453年にオスマン帝国が侵攻して東ローマ帝国が崩壊しました。これにより異郷のイスラムの信仰がヨーロッパに脅威を及ぼしていく時代でした。これに加えローマ教皇インノケンティウス8世(在位1484-92)が汚職を重ね、おぞましい異端診問や魔女狩りを行うという、キリスト教の堕落もありました。また、西暦1500年に「最後の審判」の時が訪れるという終末思想も強まり、世紀末的な不安や恐れ、悲観的な世界観が人々に広がりました。

 腐敗したローマカトリックは形骸化し、各地で宗教運動が起こるという混乱の時期、それらに対する批判的な精神がボスに生まれ、罪や罰を追及した作品を世に出したのでした。

 このようなボスの作品を愛し、パトロンとなった権力者がいました。ネーデルラントの統治者だった「フィリップ美公」ことフィリップ1世は、三連祭壇画《最後の審判》(1506年頃)を注文しています。外扉の聖人パヴォは端正な顔立ちだったフィリップ美公がモデルです。

《最後の審判》(外扉)1506年頃 油彩・板 ウィーン、ウィーン美術アカデミー附属美術館 右がフィリップ美公をモデルとした聖人パヴォ

 また、スヘルトーヘンボスに滞在していたフィリップ美公に随行していた貴族のナッサウ伯ヘンドリック3世は、自身の結婚に際してボスに絵を注文しました。これがボスの最高傑作と呼ばれる《快楽の園》(1490-1500年)でした。

 もうひとりの重要なパトロンが、スペイン貴族のディエゴ・デ・ゲバラです。生涯をネーデルラントで過ごし、ボスと同じ「聖母マリア兄弟会」の会員でした。美術愛好家でもあり、ヤン・ファン・エイクの《アルノルフィーニ夫妻の肖像》(1434年)も所有していました。

 ボスの《干し草車》《愚者の石の切除》など6点をゲバラ家が所有し、のちにスペイン王フェリペ2世(フィリップ美公の孫)が買い取り、現在プラド美術館やエル・エスコリアル宮殿に収蔵されています。

《愚者の石の切除》は第2回、《干し草車》は第3回、《快楽の園》は第4回で詳しく解説します。