快楽に耽る男女、地獄を跋扈する怪物や悪魔・・・明るい色彩とどこかユーモラスなボスの世界はどこを切りとっても奇想天外です。しかしボスが本当に表現したかったのは、人間の醜さや悪に溢れた悲観的な世界でした。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

《最後の審判》1506年頃 油彩・板 164 cm × 242 cm ウィーン、ウィーン美術アカデミー附属美術館

奇想はどこから生み出されたのか

 ボスはどんな人物だったのか、作品はいつ描かれたのか、どれが真筆か、そして何を表現したものかなど、すべてが謎に満ち満ちています。

 北方ルネサンスの作品の特徴である、描かれた図像の持つ意味を読み解く「図像解釈学=イコノロジー」を提唱した19世紀のアーウィン・パノフスキーにおいても、ボスの絵の読み解きにはギブアップしました。それほど難解だということもボスの大きな特徴です。

 ここでは近年の調査で明らかになったことも紹介しながら、北方が生んだ奇想の画家・ボスの魅力を余すところなくお伝えしたいと思います。

 まず、難解至極のボスの作品をより理解するために、数少ない明らかになっていることや推定されていることを紹介しましょう。

 ボスの生涯については記録が残っていないため詳細は伝わっていませんが、1450年頃に生まれ、1516年8月9日に葬儀が行われたことがわかっています。1452年に生まれ、1519年に没したレオナルド・ダ・ヴィンチと同時代の画家であることは、とても興味深いところです。

 イタリア・ルネサンスの先進的な空間表現に比べて、ボスは現実世界を描くというよりも中世的な要素を残しながら、奇想の世界を描き、作風が全く違います。ボスはイタリアに行ったのではないかと疑われたりしていますが、絵画の中にはほとんどイタリアが追求したような現実描写はありません。

 さてボスは、祖父、父、叔父、兄弟も画家として活動している画家一族に生まれ、生涯をネーデルランドのブラバント地方の都市・ストルストーヘンボス(現オランダ)で過ごしました。本名をヒエロニムス・ファン・アーケンといい、ストルストーヘンボスという地名から、そう名乗ったようです。またアーケンはドイツの地名であることから、一族のルーツはドイツだったと考えられます。

 ストルストーヘンボスはブルゴーニュ家が支配する人口2万人ぐらいの活気がある街でした。織物や鋳物産業が盛んであるとともに、宗教が盛んでした。ボスも敬虔なキリスト教徒で、「聖母マリア兄弟会」という組織に参加します。この会の礼拝堂にあるマリア像が奇跡を起こすということから、急成長した組織でした。さらに「誓約兄弟」という聖職者に近い立場で指導的な役割をしていたと考えられています。キリスト教の強い影響を受けたことは、ボスの作品を鑑賞する際にとても重要です。

作者不詳《ストルストーヘンボスの市場広場の眺め》1530年頃 油彩・板 126×67cm ストルストーヘンボス、北ブラバント博物館
市場の奥に並ぶ家の右から7番目がボスの家だとされている

 ボスの肖像画の模写と見られる素描が残っています。ほかにも《干し草車》(1512-15年)の外扉《旅人(放蕩息子)》(1505-10年頃)や、《快楽の園》(1490-1500年)の地獄に描かれた樹木人間などが自画像ではないかという研究者もいます。いずれも絵から受けるイメージとは違って、なんだか地味な老人です。また、絵によく登場する邪悪のシンボルであり、智の女神ミネルヴァの象徴でもあるフクロウは、姿を変えて闇の世界を観察するボスの自画像と考える説もあります。作品のどこにフクロウが描かれているか探すのも面白いでしょう。

作者不詳《ヒエロニムス・ボスの肖像》1550年頃 チョーク・紙 41×28cm アラス、市立図書館
 
《旅人(放蕩息子)》部分 1505-10年 油彩・板 マドリード、プラド美術館
《快楽の園》部分 1490-1500年 油彩・板 マドリード、プラド美術館

 ちょっと冴えない地味な風貌の真摯なクリスチャンだったボスは、貴族の娘と結婚し、画家としても成功して生涯裕福な暮らしをしていたと推定されています。