《ヘントの祭壇画》を完成させたのち、ヤン・ファン・エイクは約20の作品を世に送り出しました。《アルノルフィーニ夫妻の肖像》はじめ数々の解釈がされてきましたが、果たして正しい解釈はどれなのでしょうか?
文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)
謎に満ちた《アルノルフィーニ夫妻の肖像》
ヤン・ファン・エイクの作品の中で、最も多くの謎を含んでいるのが《アルノルフィーニ夫妻の肖像》(1434年)でしょう。主題やモデル、描かれているものが何を象徴しているかなど、今日でも解明されていないことがたくさんあります。そのため図像研究に携わる人を今も虜にし続けています。
この絵に描かれているのは、イタリア出身でヤンと同じブルッヘの街に住む裕福な商人ジョヴァンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィーニと、その妻ジョヴァンナ・チェナーミ夫妻だとされてきました。ジョヴァンニ・アルノルフィーニと思われる人物の肖像を、ヤン・ファン・エイクは4年後の1438年にも描いています。
美術史学者パノフスキーが1934年に発表した解釈では、男性が女性の手を取り片手を上げる仕草は結婚の誓いであり、結婚を暗示する象徴物が多く見受けられることから、この絵は「絵による結婚証明書」だとするものです。
象徴物は、犬は夫婦の忠節の象徴、背後の椅子に施された聖女マルガリータ像は、飲み込まれた竜のお腹を突き破って出てきたため安産の守護聖人、結婚が聖秘蹟のひとつであるため脱ぎ捨てられた木靴は聖なる場所を示唆する、などです。
また、中央の凸面鏡には夫妻の後ろ姿と戸口に立つふたりの人物が映っていることから、このふたりが結婚の証人で、その上にある銘文には美しい文字で「ヤン・ファン・エイクここにありき 1434年」と書かれていることから、ひとりは証人として立ち会ったヤンだというのが、パノフスキーの解釈です。
その後、パノフスキーの説は批判され、新しい解釈が試みられます。
まず、夫妻が結婚したのは1447年とされているので、時期が合わないため、研究者の中にはヤン・ファン・エイクとその妻マルガレーテだと主張する人もいました。
そして結婚の秘蹟ではともに右手を握り合うのが普通で、この絵のように男性が左手、女性が右手というのは身分が違う者同士の結婚「貴賎結婚」だという説もあります。配偶者やその子どもに相続権がないので初夜の翌日に財産分与が行われ、それを「朝の贈与」と呼ぶため、朝の贈与の約束ではないかというのです。
そうなると妻ジョヴァンナ・チェナーミは商人の娘なので、モデル自体が違うということになり、男性はジョヴァンニの弟のミケーレ、女性は出自が不明のエリザベートではないかという推定がされました。しかし、所蔵先のロンドン・ナショナル・ギャラリーでは、ジョヴァンニの従兄弟にあたるジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニ夫妻の二重肖像画で、結婚の証明という意図はないという説明がされています。