東京での富太郎
富太郎ら一行は、佐川から高知までを徒歩で、高知から神戸までを蒸気船で、神戸から京都までを当時は「陸蒸気(おかじょうき)」と呼ばれていた汽車で、京都から滋賀の大津を経て四日市までを植物採集しつつ徒歩で、四日市から横浜までを「和歌浦丸」という蒸気船で、横浜から新橋駅までを再び汽車に乗り、ようやく東京にたどり着いた。
富太郎は東京の街の豪勢さに目を見張り、人の多さに驚愕している。
富太郎らは、神田の猿楽町(現在の東京都千代田区)に下宿した。富太郎は内国勧業博覧会を見物し、本屋を何軒も巡っては、次から次へと本を買い集めた。
愛用品となる、念願の顕微鏡を手に入れたのも、この旅行のときである。
国産の顕微鏡はまだ作られておらず、ドイツ製であった。この顕微鏡は、牧野記念庭園(東京都練馬区東大泉)に展示されている。
買い物と物見遊山のみならず、富太郎は東京にいる間にやりたいことがあった。
それは、博物局を訪れることである。
博物局とは、博物館事務を受け持つ部局だ。当初は文部省、のちに農商務省に設置された。
富太郎が博物局を訪れたかった理由は、小学校時代の富太郎が夢中になった「博物図」の執筆者である田中芳男と小野職愨がいたからである。田中は博物局で天産部長を務めており、小野は田中の部下であった。
富太郎は、少年時代から憧れ続けた二人の学者に会うために、知人の伝手を辿り、内山下町(現在の東京都千代田区内幸町)にある博物局の扉を叩いた。
富太郎の憧れ、田中芳男と小野職愨とは?
田中芳男は天保9年(1838)生まれの博物学者だ。いとうせいこう演じる里中芳生のモデルと思われる。
父は医師で、田中自身も蘭方医の伊藤圭介に学び、医術・本草学(薬用とする植物・動物・鉱物を研究する学問)を修めている。
1862(文久2)年に、東京大学の前身の一つである「蕃書調所」に採用され、物産学を担当した。
東京上野の博物館、動物園の設立などにも尽力し、日本の博物学や殖産興業に多大なる貢献をした人物である。
小野職愨は、田中芳男と同じく天保9年に生まれた植物学者だ。田辺誠一演じる野田基善のモデルと思われる。
小野は江戸時代の著名な本草学者で、幕府医官の小野蘭山の玄孫である。
富太郎は少年時代、この小野蘭山が講述した『本草綱目啓蒙』の数冊に、西村尚貞という医者の家で出会い、借りては書き写している。
博物局に通い詰める
田中芳男は富太郎から面会を求められると、快く応じた。
田中は富太郎に「どのように植物を学んできたか」を尋ねた。
「幼い頃から植物が大好きで、高知の植物を実際に観察して学んだ」と答えると、田中は富太郎の研究方法を称え、励ましたという(上村登『花と恋して 牧野富太郎伝』)。
富太郎の植物愛と研究への情熱に心打たれたのか、田中は部下である小野職愨と小森頼信に案内をさせるなど、富太郎を歓待した。
富太郎は、貴重な文献を読ませて貰ったり、標本作りを指導して貰ったり、博物局の職員の案内で、小石川植物園(現在の正式名称は、東京大学大学院理学系研究科附属植物園)で珍しい植物を見たり、紹介された植木屋で、気に入った苗木を買い込んだりした。
東京滞在中、富太郎は毎日のように博物局に通い詰めたが、田中も小野も温かく迎えた。
さらに、「国内はもちろん、海外で出版された文献でも、重要なものがあれば、佐川へ帰ってからも知らせよう」とまで約束されたという。
これらの出会いにより、富太郎は「もっともっと植物を採集し、標本を作って、研究を進めたい」と、ますます植物学への思いを強くして、佐川に帰った。