明治維新を機に芳幾は新境地へ
技量を高めながら制作に励む2人であったが、そこに思わぬ敵が現れる。明治維新という時代の波だ。浮世絵は江戸時代に隆盛を極めたが、近代になるにつれ新聞や雑誌といった新たなメディアが登場し、その地位が揺るがされることになってしまった。そんな過渡期をどのように生き抜くのか。2人の絵師はそれぞれの道を切り拓いていく。
芳幾は1872(明治5)年、『東京日日新聞』(毎日新聞の前身)の創刊に参画。1874(明治7)年には新聞から煽情的・猟奇的な記事を抜粋して紹介する『東京日々新聞』に錦絵を描くようになった。この『東京日々新聞』の展示が興味深い。
『東京日々新聞 九百七十五号(明治8年4月2日)』より。
木挽町の料理茶屋・田毎に時折やってくる左官の清十郎が、馴染みの芸者おさくを呼んでお酌をさせていた。深夜、襲おうとしておさくが逃げようとするのを、清十郎は隠していた出刃包丁で刺し殺して逃げてしまう。清十郎は婿養子で、殺された芸者と同じ、おさくという名の21歳になる女房もいたという。
この記事とともに掲載された芳幾の挿絵がリアル。鬼の形相でおさくの首を絞め、包丁を握りしめる清十郎の姿。その凄惨な描写と、記事のワイドショー的なオチがいい塩梅で絡み合っている。『東京日々新聞』大錦は一般大衆の好奇心を刺激する新聞として人気を集めたという。