頼朝死後は出家して、蓮西と名乗る
頼朝は治承4年(1180)8月の挙兵に際して、近辺の源氏累代の家人たちに協力を求めるために、腹心の盛長を使者として派遣している。
石橋山の合戦で頼朝軍が大敗すると、盛長も頼朝とともに房総半島へ逃れた。
頼朝は、岡本信人演じる下総国の千葉常胤を味方に付けるために使者を送っているが、ここでも使者を任されたのは盛長であった。
頼朝が鎌倉に武士政権を樹立すると、盛長も鎌倉の甘縄に居を構えた。これは安達氏代々の邸宅となる。
頼朝は、甘縄の安達邸をたびたび訪れているのだが、やはり流人時代を支えてくれた盛長は、心を許せる特別な存在だったのだろうか。
また、盛長の娘は、迫田孝也が演じた頼朝の異母弟・源範頼に嫁いでいる。
建久10年(1199 4月27日に正治に改元)正月に頼朝が急死すると、盛長は出家して、蓮西(れんさい)と名乗った。
金子大地演じる頼朝の嫡子・源頼家が二代目鎌倉殿となると、十三人の合議制のメンバーにも選ばれている。
同年8月に、頼家が盛長の長子・安達景盛の愛妾を奪ったうえ、景盛の討伐を命じたが、頼家の母・政子に阻止されたという、安達景盛討伐未遂事件が勃発した。
この事件により、頼家に不満を抱くようになったのか、頼家の側近である中村獅童演じる梶原景時の弾劾に、盛長は積極的に行動している。
その盛長も翌正治2年(1200)4月26日、この世を去った。享年66、この時代においては長寿の部類だろう。
その後、かつては頼朝のもとで力を合わせた御家人たちが、血で血を洗う抗争を繰り返すことになるのを知ったなら、盛長は悲しんだだろうか。
二人の執権を産んだ松下禅尼
最後に、盛長の孫にあたる松下禅尼をご紹介しよう。
松下禅尼は、北条氏と安達氏を結ぶ重要な人物である。
先述の盛長の長子・安達景盛は、娘を坂口健太郎演じる三代執権・北条泰時の子である、北条時氏に嫁がせている。景盛の娘は夫・時氏が寛喜2年(1230)に28歳で病死したのちに出家し、松下禅尼と呼ばれるようになった。
松下禅尼は、北条経時、時頼、為時らを産んでおり、経時が四代執権、時頼が五代執権となっている。
夫の死後は、実家である鎌倉の甘縄邸(安達邸)に、居住していた。次男・時頼を甘縄邸に迎えた際に、自ら障子の破れを切り張りし、倹約の大切さを教えたという『徒然草』の記事は、よく知られている。
この時頼の子で、松下禅尼の孫にあたる北条時宗は、甘縄邸で生まれ、やがて八代執権となり、未曾有の国難・蒙古襲来に立ち向かうのだった。